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第81回 ヨハネの黙示録 その3

レポート

2022年3月8日に第81回ヨシェルの会がネット開催されました。

コロナ禍だけでも大変なのに、大国を巻き込んだ戦争が始まってしまいました。感染者数に減少傾向が見えにくいので、今回もヨシェルの会は急遽ネット開催とさせて頂きました。不安の増す中、学ぶのは黙示録第三章。七つの教会に宛てた手紙の後半の三つを考察します。今を生きる私たちの教会に近しさを感じつつ、時代を越えた普遍的な警告も刺さります。語られる師と参加/視聴して下さる皆様と主の導きに、只々心から感謝します。

今日のタイトルは「ヨハネの黙示録 その3」。

今回学んだ教会は(括弧内は都市名の由来、矢印の後ろはキーワード):

  • サルディス(残りの者) → プロテスタント教会、抗議から迎合
  • フィラデルフィア(兄弟愛) → リバイバル、主の御旨
  • ラオデキア(人々の権利) → なまぬるさ、戸の外で待つ主

今回は起こってしまった戦争を思い起こしつつ、奇妙なキーワードを胸に聞いてしまいました:

  • 成績表と個人面談
  • 柱とはしご、パウロ
  • ぶら下げられた人参

成績表と個人面談。
何故、黙示録は人を惹き付けつつも嫌われるのでしょう。今回の解説を聴きながら、まるで成績表と個人面談を受けさせられているようだからかもと、感じてしまいます。初心は良くても諸々の妥協や迎合に飲み込まれていく様、兄弟を愛するという当たり前のことの大切さ、自分の得意分野に慢心し奢り高ぶる様。振り返ると誰にでも当てはまるような事柄が、厳しい言葉で綴られます。自分の欠点や間違いを指摘されるのは、たとえそれが愛情溢れる人から出たものだとしても、聴くには勇気が必要です。諸教会への「非難」を前に、最後の晩餐時の「まさか私ではないでしょう(マタイ26:22)」と言う弟子たちの姿も重なります。

今までの歩みに対する成績表、そして個人面談というアドバイスの場。信仰者一人ひとりが、否が応にも主と向かい会う場面そのものです。謙遜な態度をとってはいても、人はやはり褒められたいもの。だから「評価」には期待もします。でも満点であるはずはないと分かっているから、どこか怖い。それでも他よりはマシなことを証明もしたい。揺れる心情の中に黙示録が光ります。

ラオデキアの箇所で、教会よりも個々人に焦点が合っているように感じるのも、偶然ではなく神のご計画や導きなのでしょう。個人面談の色彩が強まるのは、現代社会もそうです。組織としての一体感や連帯感が最重要とされてきた風潮から、今では多様性と自律性の尊重こそがイノベーションの土壌だと流れが変わってきています。教会が決めたことだから、牧師がこう言っているから、この本にこう書いてあるから…そんなことは問われていません。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか(マタイ16:15)」との主からの問いは今も続いています。

柱とはしご、パウロ。
「神の神殿の柱(黙示録3:12)」の箇所を聴きながら、実はベテル(創世記28:11-22)の「はしご」と比較していました。はしごは上下両点をつないで行き来するためのもの、柱は天井を支えるためのもの、という認識です。けれど、「神の神殿」の天井は支えなければならないものでしょうか。ベテルの「天に達するはしご」と同じ様に、遥かに高く、遥かに堅固な「天井」があるならば、むしろそれにくっ付くようにされているのは「床」であり、それは私たち人間が住んでいる所なのではないかと思わされました。パウロが「柱」になりたいと願ったのは、この「床」が天井から離れて落ちてしまわないように結びつける役を担いたいという意味なのかもしれません。人々を見下ろすような巨像のような「柱」とは、真逆の意味が込められていた可能性に驚かされます。

ぶら下げられた人参。
馬の前に人参をぶら下げると本当に早く走るのかどうかは知りませんが、切望するものを目の前に置かれると頑張ってしまうのは事実です。聖書は一貫して、「絶望」でも「恐怖」でもなく、「希望」を人々の目の前に置きます。そして殆ど「励まし」も添えられています。ぶら下げられた「希望」は「平和」だったり「名が記される」ことだったり。もしかしたら一部の人にとっては魅力的には感じないことだったりします。それよりも自分の力を誇示できる場や、誰かを制する武力の方が、魅力的に映るかもしれません。特に「戦争」が始まってしまった今、思う所が沢山浮かびます。武力に魅力を感じる人は、かけがえのない命がそれぞれの名を呼び合える平和の価値が見えないのかもしれません。聖書の中にちりばめられた「人参」。目のある者は見なさい…との声がします。

「守り」の意味と過保護についても触れます。自立/自律を促す以上、自分で判断し行動する場面は避けられません。そのためには訓練が必要です。その文脈で艱難期”後”携挙説が解かれます。更にウクライナ紛争の背景としてロシア正教会的な視点も学びます。七つの教会の話の後にこれらを聴くと、更に自分たちも試され続けていると言う「現実」を感じます。

二つの大戦を経て人類が学んだこと、科学の発展の先に人類が手にした破壊力の大きさ、始まってしまった戦争、振り上げた拳を下ろす術を学んでこなかった現状、コロナ禍の継続…終末のカウントダウンは確実に進んでいるようにしか思えません。だからこそ、奇跡のような打開策を示してくれる御言葉の学びの価値が増します。信仰者にとって大切な警告も示唆もアドバイスも、今回もたくさん語られました。音声動画・資料を通して更に深くお学び下さい。

感想

  1. 全く自分の状態が解っていない、見えていない私たちを、「叱り、懲らしめる」という忠告の中にも、「聞きなさい、目をさましなさい」と繰り返し語りかけてくださる中にも、神様の忍耐と愛を受け取り感謝しました。想像力乏しく実感が湧かないのですが、勝利を得る者に与えられる神の国での報酬の数々に改めて驚きました。また、果たしてキリストの名を否まないで居られるだろうか、でも大きな試練からは守られたい。聖霊に助けを求め、悔い改めつつ、初めの愛を行い、神と共に歩んでいく私であり、教会という共同体であることが求められていると学びました。感謝します。

  2. 今の時代はラオデキヤ教会に象徴される背信の時代。神の嫌悪した生ぬるい信仰、味気ない教会。この世の生活に事欠くことがなく満足していて、無関心で霊的貧困に陥ってる。神が吐き出すというほど嫌悪した教会。しかし今、コロナ感染とウクライナ侵攻を通して目が覚まされ、霊の覚醒が起こされているのではないでしょうか。又、ロシアのウクライナ侵攻のやり方はエゼキエル戦争がこのようにしてなされるとリアルに思わされました。講義の最後にプーチンとロシアの宗教的背景を語って下さり、ロシア正教について学べ、参考になりました。

  3. 今回の学びでは、フィラデルフィアの教会に対するメッセージから励ましを受けると同時に、サルディスとラオディキアの教会宛てのメッセージから自らの心の内を探られました。賞賛がなく厳しい叱責。「生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」「生ぬるく、熱くも冷たくもないから吐き出す」。この世との軋轢や迫害がないが故に、むしろ緊張感に欠け、自己満足や欺瞞、霊的傲慢に陥ってしまう危険性が大きい。現在の教会の状態のみならず、神の目に映る自分の霊的な状態は如何ばかりか。悔い改めて最初の教えに戻るようにとの警告が自分自身にも語られているのだと思わされます。初心を忘れることなく常に主との関係を吟味する必要を覚えます。終わりの時代に生かされている事を意識しながら、神さまが約束してくださっている報酬に与ることが出来るよう、天に想いを馳せ、主を見上げ、感謝と賛美を捧げつつ、最後まで主と共なる信仰の歩みをしていきたいと思わされています。丁寧なみ言葉の解説に感謝します。

  4. 今回はロシアがウクライナに侵攻するという予想もしていなかったことが現実となっているこの時に、ロシア正教会・ロシアの宗教的背景について考察してくださったことを嬉しく思います。東方教会、ロシア正教に関しての知識がなかったので、興味を持って調べるきっかけをいただきました。プーチン大統領がロシア正教の信仰者であり、キリスト教国の再建を望んでいたという記事の内容を知り、驚いています。しかし、どのような理由があるにしても戦争は決して正当化されるものではありません。平和の大切さをつくづく実感しています。国家の指導者たち、各界のリーダーたちに和平のための賢い知恵が与えられて、一日も早く終結することを心から祈ります。

  5. コロナ禍の中での戦争の勃発に驚いています。そのような中でロシアとプーチン大統領の宗教的背景に言及してくださり、ありがとうございます。今回の戦いはその背後にサタンの思惑と策略が張り巡らされていることを感じ、霊的な意味での戦いでもあることを強く思わされています。このロシア・ウクライナ戦争の終結に関してはよく分からず心配ですが、しかし私たちクリスチャンはこの世の結末は、義なる神の正しい審判がなされ、神の勝利で終わることを知っていますから心強いです。世の終わりまで忠実であるようにとの神のメッセージに耳を傾けたいと思います。そして今自分に出来る事を考えながら、愛する人々の救いのために、またこの戦争が一日も早く終わるよう、執り成しのお祈りを捧げていきたいと思っています。ありがとうございました。