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第46回 使徒パウロの宣教 その14

レポート

1月15日に第46回ヨシェルの会が開催されました。参加者は22名でした。新たな年の初め、情熱いっぱいの講師と聖書のみ言葉の学びに真摯に向き合う方々、そして今回始めて参加された方も含めての活気あふれたスタートとなりました。

今回のテーマは「使徒パウロの宣教 その14」。主に「コリント人への手紙第一 1章-2章」の学びでした。

先ず、前回の復習も兼ねて、コリントでのパウロの状況、パウロとコリント教会との関わり、紛失した二通の手紙に関しての説明をしてくださいました。

次に「コリント人への手紙第一」のテーマの解説:

  1. 教会内に、異なる二つの道-滅びに至る道、救いに至る道-を歩んでいる者たちがいること
  2. 奥義の管理人に要求される生活姿勢とその報酬
  3. 報酬を分ける二通りの土台

さらに裁きに関する教えに言及。聖書の中には裁くな!と教えている聖句もあり、裁きを認めている聖句もあります。そこで聖書の原則に触れ、裁くことのできない領域や裁く必要のない領域、また裁く責任のある領域に関して分かりやすく説明してくださいました。各々の生活と照らし合わせての吟味を促す考察となりました。

1章の中では特に「愚かさ」に関して興味深い解説がなされました。神は「愚かさ」という矛盾語法を用いて真理を明らかにされています。特に十字架において人の完全な堕落 “滅び” と神の不変の愛 “救い” を表されました。聖書に記されている逆説や背理は神の知恵とユーモアに富んでおり、心躍らされます。

2章においては福音宣教とは神が人類の救いのためにキリストにおいてしてくださったことを証しすることであり、キリスト者は御霊によってキリストの視点から物事を見ることが大切であると語られました。

音声・資料を通してさらなる学びをしていただき、今年も多くの宝発見の旅を共にしていけたら幸いです。

感想

  1. 2つのことを思わされました。
    まず「神の愚かさ」についてです。神はこの世の「愚かな者、弱い者、無に等しいもの」を選び、しかも「宣教の言葉の愚かさ」を通して信じる者を救おうとされたとあります。これこそ、隠された奥義であり、神の知恵によるものであり、御霊と御力とみこころ以外には成しえないものです。私たちはこの時代に聖書を持ち、読み、教えられてようやく神のご計画の全体を知ることができるのですが、コリント人への手紙の時代にあって神の奥義によって救いが起こることは御霊の働きなくしてはできなかったのではないでしょうか。それにしても、2000年経った今もキリストの十字架による救いを宣べ伝える神の方法は同じであり、今や福音が世界中に行き渡っている現実に本当に驚きます。
    もう一つは「安心」を与えられられたと言うことです。キリストを受け入れた者はすべてのことにおいてキリストにあって豊かな者とされ、どんな賜物にも欠けるところはなく「キリストの現れであるその日」を待っている者である。そして御手が最後まで堅く保ってくださり、神に召され主イエス・キリストの交わりに入れられているというのです。キリストのくびきを負いつつも私たちキリスト者は「神の真実」故に安心して良いのだと思わされました。

  2. 今回の学びでは特に裁きについての言及が興味深かったです。「裁きの主要な目的は懲らしめではなく、正しい者をまもること」「自分の持ち場以外の領域では裁いてはいけない」「裁きの理由として、神を信じ信頼していないから…」というお話から、人を批判する、裁くということに対して自分自身を吟味する必要を深く感じました。

  3. 教えが多過ぎ、大変ためになりましたが、溺れそうな位の学びでした。消化しきれない感もありました。 イエスを信じるだけで祝福という福音派の中で生きてきたので、掟を守れないと祝福されないみたいな言い方は疑問も感じました。 Ⅰコリ1:1-7の部分は現実の中で神の“現れ”があると感じます。今すでにこの世で人を通し、教会?社会?を通して、神様の手が現れ救われたと思います。

  4. 裁きに関する教えが興味深く学べました。教会内に異なる二つの道があり、滅びに至る道、救いに至る道に対して自分の立ち位置について考えさせられました。

  5. 「裁き」に関する部分がとても心に響きました。先ずは裁きの「目的」。裁きとは、「良い者を守るため」のものであり、決して「懲らしめ」ではないというポイント。まさに、良いものを守るための「塩」。やもすると、責めること自体が目的化してしまう自らの行動を省みてしまいます。
    また自分に与えられている「領域」についての考え方。ルカ12:13-14、出エジプト2:13-14、Iコリント4:4など、どこまで口を出して良いものかを考えさせられました。
    そして、裁きたくなるのは、神を信じていないからではないのかという問い。聖書は一貫して、神は必ず決着をつける方だと証言しています。それを待てないから自分で動き出してしまうのではないか、と。裁きたがるのは、不信仰の現れなのかもしれません。

  6. イエス キリストと個人の関係が最重要であることの学びがありました。