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第48回 使徒パウロの宣教 その15

レポート

3月12日に第48回ヨシェルの会が開催されました。出席者は21名でした。

春うらら、桜の便りが待ち遠しいこの季節、ひと時静まって聖書の教えに耳を傾けることのできる幸いを感謝します。

今日のテーマは「使徒パウロの宣教 その15」 『コリント人への手紙第一 3章〜5章』を1節づつ丁寧に講義してくださいました。

コリント教会では教会が成長する過程で起こる種々の問題に直面していました。パウロは今回の箇所において特に分派、近親相姦などに関して厳しいメッセージを語っています。

聖書には二通りの人々-信者と未信者-が登場しますが、信者もまた二通り-肉的と霊的-に分類されます。霊的に成長できず、古い性質に支配され、この世的な生活をしている肉的な信徒間に起こっている問題に関して、パウロは教え諭しています。

3章では特に分派の問題を取り上げ、焦点は“人”ではなく“働き“であること、全ての信徒は神の働きのために用いられているしもべであることを強調しています。また、 キリストが据えられた「福音」の上に各々がどのようなものを建てあげるのか?永遠に残るものかあるいは滅びるものを積み上げるのか?信仰者は問われています。知恵に関しては、ペルシャの箴言の引用が興味深く語られました。

4章では高慢になっている人々を戒める教えが綴られ、コリント教会の霊的な父親としてのパウロの熱い思いが伝えられています。

5章では性的な乱れに関する問題を取り上げています。不品行の比喩的表現として用いられているパン種の特徴は:

  1. 罪の「ひな型」。
  2. 膨れ上がり、堕落させる。
  3. 制御できない状態、急に崩壊する状態を招く。
一瞬にして広がる汚れとは対照的に聖さは時間がかかります。パウロは罪を犯している信徒が悔い改め、主に立ち返り、教会が健全に立ち上げられていくために、あえて厳しい指示を与えています。

信仰者にとっては大切な警告として受け止める必要のある教えが、今回も語られました。音声・資料を通して更に深く学んでください。

感想

  1. 今の世は沢山の情報、この世の知恵に満ちて簡単にそれらを得ることができます。得ることで知者になったつもりになり、そのことを誇ってしまいがちであるけれど、それが愚かなことだなと改めて思わされました。この世の知恵ではなく神の知恵を得ることを、もっとしていかなくてはいけないことを学びました。

  2. 時代の流れとして、教会成長に焦点が当てられ、教会員の数が増え、建物が大きくなることを目指す一方で、信徒教育が多少疎かになってきているような気がします。また、教会の指導者に依存する信徒が多いようにも思います。各々がもっと聖書に親しみ、自分自身の足でしっかり立っていくことが大切だと思います。 パン種に象徴される罪を吟味し、サタンの誘惑に陥らないようにしていきたいと思いました。

  3. 人間の思い上がり私たちの日常は膨れ上がるパン種の罪に生きています。そして、神から与えられた義ではないのに勘違い、錯覚し生きていることを思います。

  4. 混迷している時代を思いながら、聞かせていただきました。

  5. 毎回、内容の濃い学びに感謝です。 キリスト者の信仰の歩みについて、どこに土台を置いて歩んでるか。救いと報いについてなど丁寧に語っていただき興味深かったです。 世界情勢のニュースを聞く度、明るい未来を描くことが難しく感じてる今、「人生と死において、あなたの唯一の慰めは何ですか?」「真実な救い主、イエスキリストに属するということ、これが私の最大の慰めです。」 このハイデルベルグ問答で福音を述べ伝えなさいと促された気がしました。

  6. 先ずは、一人の魂の救いのために、どれ程の想いや熱意が積み上げられているのかを思い直されました。一人の「救い」とは、神が全身全霊を持って取り組まれていることで、その大きさ深さを思うと、まさに「人とは一体何なのだろう」と思わずにいられません。
    そして、同時に99匹と迷える1匹の羊の喩えを思い出します。私達はよく、99匹に対して1匹という相対的な見方でこの喩えを理解しようとしてしまいますが、神様にとって私達は唯一無二の存在で、だからこそ神様ですら全身全霊で取り組まねばならぬことなのだと教えられます。
    「あぁ、また一人の受洗者が与えられた」と、半ばマンネリ化した人の喜びの遥か上、天では驚くばかりの祝賀会が開かれていて、自分の時もそうだったのかと恐縮してしまいます。
    そして、数多あるこの世の教会や信仰者の歩みも考えさせられます。「ぼーっと信じてんじゃねーぞ」そんな流行り言葉が頭をよぎります。神が心血を注いで新たな生命を与えられた私達の生き方の希薄さ、軽さ。守れないと白旗をさっさと上げてしまいそうな思い戒めと訓戒とがこんなにも書かれていたとは。
    更に、学びの場で語られた「ペルシャの箴言:自分が知らないことを知らない人は愚か者=その人を避ける必要」。でも、イエス様はそんな私達に「主よ許し給え、彼らは何をしているか分からないのです」と祈り、手を差し伸べてくれました。
    「真理にupdateはない」。解説の中で語られた一言に、再度神の偉大さを噛み締めました。毎月のように何かを更新していかなければ行き詰まるこの世に対して、悠然と不変な視線が私にも注がれているという畏れ多さ。改めて、聖書に触れられた、触れられている喜びに心が震えます。重い学びの時間に感謝します。

  7. 今回の学びで印象に残ったことは裁きについてで、パウロが自分を裁くこともしないと言っているように、神だけが正しい判断ができる存在であるのだから他者も自分も裁きは主にゆだねるのがよい。 また人間は堕落にも高慢にも陥りやすい、むしろそのどちらかにしかいられない存在のようにも思える。 だから常に主を覚えて聖別しつつ他者とも自分とも関わりたい。