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第59回 使徒パウロの宣教 その23


レポート

第59回ヨシェルの会のメッセージ。今回はネット配信の形でお届けします(2020/05/03収録)。

パウロ自身の信仰者としての生き方を、コリント人への手紙から学びます。4章の「目に見えないもの」の話に続いて、私たちの「幕屋」から始まり、死の先にあるものに話が及びます。新型コロナウィルスの猛威の前に、今までなら信仰の強さについてのメッセージと受け取っていた言葉が、別の命を吹き込まれたかのように輝きだします。語られる師と参加して下さる皆様と主の導きに、只々心から感謝します。

今日のタイトルは「使徒パウロの宣教 その23」。聖書箇所は、前回からの続き、コリント人への手紙 第二の5章。

聖書朗読の後、キーワードを追うように解説が進みます。「幕屋」「天にある永遠の家」「裸」「衣」「さばきの座」「救い」「報酬」「最終試験」…。ここでも、たった1章の中に創世記から黙示録までが凝縮されているのを感じます。前半は、人間の本性について。後半は、そんな人間が走り続ける先、あるいは走り続けられる理由について。

エデンの園での原罪の場面、それを恥じる場面、それを覆い隠そうとする場面、追放時には獣の皮が与えられたことの意味、皮が取られた時点で一つの命がそのために用いられたという事実。原罪を抱えた人間が、イエスによって贖われた事実を再考します。同時に、その救われた命の重みも考えます。

そしてこの新型コロナウィルスの恐怖が頭をよぎります。私たちは、今、目に見えない疫病と闘っています。自分がどんなに注意しても、その手に、その会話に、病原菌が忍び寄っている可能性があるという日常。そして、このとても高度な医療機構に守られている日本では、余程の大病でない限り、老衰などの静かで緩やかな「死」をイメージしていました、これまでは。それが、この数ヶ月で激変しています。「神の宮」とまで言われた「身体」が、急激に、最後のお別れもできない状況で失われていく。改めて身近にある「死」を意識せざるを得ない日常です。

そして、パウロ自身は、苦しみながら「生」を続けるより、死して神と共にいる未来を願います。しかし、そこには最終試験があるよと、釘を刺すのです。「救い」は一方的な恵みなので、救い主と信じた時点で自動的についてくる、しかし他に「報酬」があるんだよ、と。その報酬を決める「最終試験」である「さばきの座」があるのだ、と。

私たちが死に至り、肉体が燃やされた後、さばきの座でも同じ様に、私たちを炎が覆います。地獄の責めではなく、主の目にかなった者には、暖かい日差しのような「炎」かもしれません。そしてその炎が過ぎ去った時に、残されるものが2つあります。永遠の命を与えられた自分と、生前自分が成してきたことの名残である「報酬」。さて後者は、炎に焼き尽くされぬ金銀のようなモノなのか、それとも燃え尽くされ影も残らないモノなのか。

その分かれ目は聖書に書いてあります。主は、予め私たちに予告することを忘れません。どう生きれば、天に宝を積むことになるのか。それは一言で言えば「愛」であり「和解」。余りのシンプルさ故に、受け入れにくさが増します。でも、それ以上に豊かな生き方ってあるのだろうか。聖書はどうやってお金を儲けられるかについては書いていないが、豊かに暮らす方法だけが書かれてある。

そして、その様な生き方を望む原動力についても、パウロは高らかに明言する。報酬が欲しい訳ではない、そうせざるを得ないほどに、「キリストの愛が私たちを駆り立てる(5:14)」からだと。

それにしても、聖書には黙示録時代の話が実は多く記されています。4福音書でも、愛についてのメッセージでホンワカした途端に、厳しい言葉が続く箇所が幾つかあります。聞きたくない話に目をつぶっていると、気がついた時には終末が扉を開けているかもしれません。STAY HOMEのさなか、私たちを駆り立てるものを静まって考える良い機会なのかもしれません。そしてそれは今しかできないのかもしれません。

信仰者にとって大切な警告も示唆もアドバイスも、今回もたくさん語られました。映像・資料を通して更に深くお学び下さい。

感想

  1. 世界中に蔓延する新型コロナウイルス。コロナ終息後は今までの基準が変わるとさえ言われていますが、そんな中、人を思いやる心が少しずつ失われているのではないかと自分自身に問いかけていたところでした。このメッセージは、自分の心の中に不思議なくらいすんなりと入ってきました。キリストの愛、救いと報酬、義の衣=光の衣、光の神秘、光としての神の臨在などなど。外出自粛の折、それらを念頭に、もう一度聖書を読み返し、神との対話を求めていきたいと思います。

  2. 今回は聖書における裸の定義、光の衣、最終試験、パウロにとって天は単なる目的地ではなく生きる動機。それら聞きなれない解き明かしの言葉と共に興味深く聴きました。 終末の時、キリスト者にしっかりと土台となる真理を前よりも更に深く、講師を通して主が語って下さることに感謝します。

  3. 2020年を迎えた時には今日のような先の見えない日々、死を意識する生活に入ろうとは思いもよらなかった。 人々が世の様々な楽しみから遠ざけられて生死に関わる問題に直面し家にとじ込まざるえず、 そのために時間を十分に持っているこの時、福音を届け神との和解に生きる平安があることを宣べ伝える。 まさにその時を神様が与えているのだと思わされました。感謝。

  4. この地上で、神を受け入れたか否かによって、死後の行き先が決まる。「永遠の命」か「永遠の滅び」か。それには、人は皆本来の姿は罪人であることに気づく必要がある。 神が与えて下さる衣(贖いの血)で覆われることにより、神を信じる信仰によって、神の義とされる。善行によってでは無い。内住のキリストによって生かされているキリスト者には永遠の安全保障があるが、この世での生き方として、自我を捨て、内住のキリストの愛が解き放たれる事に心を留め、他の人のために何をしたかと問われる。報いの座での最終試験に顔をまっすぐに上げていられるように、日々主を仰ぎ見て、聖霊様の声に耳を澄ませねば。 コロナ自粛で家に籠っている今、次へのステップの備えの時と感謝いたします。

  5. 今回もパウロの熱き思いが伝わってくるようでした。丁寧な解説、興味深く拝聴いたしました。キリスト者にとってこの世はあくまでも仮住まいであり、天に永遠の家があるという。この地上でのいのちを越えた、永遠のいのちに思いを馳せる時に、今をどう生きるのかという大切なことが見えてくるのだと思います。 キリストの愛に感動し、キリストの愛に駆り立てられる…果たして自分はそのような熱き想い・信仰を持っているのかと問われた気がしています。