レポート
11月10日に第65回ヨシェルの会が開催されました。出席者は20名。
顔を合わせての学びの場、再開後3回目です。自由に会合が持てない日常が続く中、徐々にコロナ禍第三波とも思われる状況の中で細心の注意を払いつつの学びです。学ぶ聖書箇所はロマ書。人の救いについて、神の救いの手を必要としない人がいるのか、救いは人の行為によって得られるのか…古くて新しい問題とも言えるテーマです。私たちに伸ばされる救いの手の大きさ広さとともに、二千年前から私たちが陥る罠への警告が綴られていることにも驚きます。語られる師と参加/視聴して下さる皆様と主の導きに、只々心から感謝します。
今日のタイトルは「使徒パウロの宣教 その29」。聖書箇所は、ローマ人への手紙3章9節〜4章全体。
前回は、罪の浸透力と邪悪さに陥った様を学びました。今回は、全ての人に「救い」が必要であり、どんな例外もないことが中心に語られます。考え方も行いも血統も、善い人も賢い人も無関係。一方的に神の恩寵により救われる必要があり、それができることこそ神の主権者たることを示すのだと。パウロは、解説を示したあと、ユダヤ人たちの精神的支柱でもある二人の偉人(アブラハムとダビデ)で例解します。
熱い語りを聞きながら、今回も様々なことが脳裏に浮かびます。「救い」を得るための「道」を、人は様々な形で求め続けています。行い、善行、知識、血統、割礼、儀式、宗教…。これを成せば、私は救いの確信を持てるし、優先的に救われるのだ。修行のように日々の自分の努力などに依って神に近づけるという考え。それが神を低くし、自分を傲慢にしていることさえ隠していく行為であることが見えなくなっていく私たち。
しかも二千年間も同じところをぐるぐると回っている気さえします。そうでなければパウロがこの時代に示すことはできないし、現代の私たちに刺さる言葉にならないでしょう。「神は凄いですね」、先を見据え、人間の本質を奥底までご存知な神を、素直に讃える師の言葉に頷いてしまいます。
そして神が私たちに求めていることは無理難題ではないという真実。ただ信じよ。一人も余すことなく救いたいという神の想いの大きさと深さを、どこまでも信頼するのかという只一つの問い。「必要なことはただ一つ(ルカ10:42)」、聖句を思い出します。難解に思える箇所も、書かれてあることはシンプル。人があれこれと言い訳を重ねていくのが多いが故に、問題が複雑に見えているだけなのかもしれません。
行いを伴わない信仰に悩んだり、奉仕という呪縛に囚われて喜びから離れたり、儀式を最重要視して心が伴わなかったり、イスラエルと教会とを入れ替えて自分たちの正当性をうそぶいてみたり。聖書には何度もシンプルに答えが書いてあり、パウロもしつこい程に伝えてくれています。神の目から見て、あざとい取り繕いなど不要なのだと知らされます。自分で掘った穴に足をとらわれるように、律法やルールでがんじがらめになっている私たちを、神は身を削るような想いで見つめ寄り添っていてくださる。
最後にユダヤ教とキリスト教にも触れます。今はイエスを神だと信じないユダヤ教徒が、それを信じる日が来る。クリスチャンにとっては再臨でも、彼らにとっては来臨となる。与えられた約束の違い、どれも忘れていない神。「約束」の重さを思いつつ、「あとのものが先になり、先の者があとになる(マタイ20:16)」も思い出します。
私たちを救おうとする壮大遠大なこの計画に驚きと感謝を持ちつつ、学びを続けたいと思います。信仰者にとって大切な警告も示唆もアドバイスも、今回もたくさん語られました。音声動画・資料を通して更に深くお学び下さい。
感想
- 聖書という心臓からみことばという血液が始めは太い動脈を流れ毛細血管に達するように、繰り返し聴いてきたパウロのことばが丁寧な講義を通して、「人の救いは神の恵みによる以外にはない」と心深くに達したように感じました。「義人はいない、ひとりもいない」のだから神に義の衣を着せていただこう!そして、すでにその衣が神によって用意されていることを伝えて歩みたいと願わされました。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによる」とは本当でした。感謝です。
- 今日の講義は最後にある、まとめ4項目を一つ一つ丁寧に解き明かして下さり、何故アブラハムが信仰によって義とされたかをより深くはっきりと理解することが出来ました。 真の信仰はおのずと働きを伴ってくるが、働きが中心であると誇りと自慢になる。信仰と働きについても新しい気づきを与えられ学べたことは感謝でした。イエスキリストを死人から甦らせた方を信じることで義認が保障される、などの教えも興味深かったです。
- 人の働きが信仰を生み出したり、義と認められるとは思っていないのですが、信仰を行動で現さないといけない、「力を尽くして神を信じること」は働いて示すことというようなメッセージを聞くと、「奉仕しなくちゃ!」となってしまいます。働くことは苦ではないのでそのことに一生懸命になると、神との交わりの時をなくすことになり、今日のお話で働くことをもう一度考える良い機会となりました。
- 全人類が有罪。全ての人が意識的に神を無視し、誰も自分からは神を求めない。そのような人間に対して神ご自身が働きかけて、信じる心をおこさせてくださる。救われるに値しない自分が救いの恵みに与れたこと、本当に神様の憐みと恩寵ゆえです。感謝のおもいでいっぱいです。この世の価値観に左右されずに、神さまから与えられた信仰を大切に、イエスさまに従っていきたいと思わされました。
- 人は自分から神を求めたのではなく、主権者なる神の促しにより求めるものになり信仰により救われる。人の行為のメカニズムを視覚的に見ることで、すでに理解していたものが思考的整理になった。日々、神との関係の中で生きているが、少し大きな決断を迫られたとき、長い間この世の常識に洗脳された考えや自分の弱さが顔を出し、信仰が足踏みし始める。神は私達、一人ひとりのことをよくご存じなので、乗り越えられる試練しかお与えにならない。勇気をもって一歩踏み出したときに、今までと違う景色が広がり、希望が湧き出る。「心に考えていることが脳に影響を与え、脳が命令を下し身体を動かす」心を良きもので満たし、み言葉を蓄え、キリストの香りを解き放つものになりたい。
- 律法を守ること、儀式を行うこと、修行や働きや奉仕によって救われるのではなく、あくまでも信仰のみによるという、信仰義認の教えの強調。救われた喜びと感謝ゆえの働き…目に見える行為に重きを置く傾向がある中で、本当に大切なものは何かを教えていただき感謝します。