レポート
10月13日に第64回ヨシェルの会が開催されました。出席者は20名。
顔を合わせての学びの場、再開後2回目です。人との距離を考えなくてはならなくなったからこそ、人と会う価値が増したようにも、距離的に離れ離れになっていた当時の使徒たちの想いを想像し易くなっているようにも思えてしまいます。学ぶ聖書箇所はロマ書。神から離れる人間がどのように堕ちていくのか、その「不正」にどのように神が対峙されるのかを学びます。このコロナ禍の受け止め方などではなく、人が普通に生きていく上で陥っていく「邪悪さ」と、神の公正さへの学びとなりました。語られる師と参加/視聴して下さる皆様と主の導きに、只々心から感謝します。
今日のタイトルは「使徒パウロの宣教 その28」。聖書箇所は、ローマ人への手紙1章18節〜3章8節まで。
人は「自然啓示」によって、特別な学びを通さなくても、「神」や神が何に対して「怒」るのかを知ることができていることの説明から入ります。アダムとエバから、人に死がもたらされたのだとしたら、アダムとエバが知っていた「神」を私達が知っているのは、当たり前のこととも言えます。
知っているが故に、不正なことをした場合の弁解の余地のないことが続きます。それは弁解ができそうな場面(最後の裁き)があること、人は言い訳をする性質を持っていることを示唆しています。アダムとエバが、身を隠しながらも、神に問いただされた場が頭をよぎります。
そして、その「不正」がどのように深まっていくのかが列挙されていきます。「あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意…」。目を覆いたくなる、耳を塞ぎたくなります。ただの「言葉」ではなく、今までの人生の中で出会った人たちや、記憶している事件を思い出すためかもしれません。更に自分が直接関わってなくても、黙認すれば同罪だと語気が強まります。そして2章になると、それまで「彼ら」だった主語が、「あなた」に変わります。直接目の前で、パウロから叫ぶように警告されている気さえしてきます。
「不正」は、「邪悪さ」とも訳される言葉。不正の階段を転がり落ちる人は、神によって「汚れに引き渡され」ます。その汚れの行き先についても書かれています。ローマの時代も今も、この種の淫らさがなくなることはありません。そして悲劇的な結末へと進みます。そして、淫らさだけでなく、全ての邪悪さという神の摂理に反逆する者への裁きが待っています。
けれど、神の裁きの原則は、極めてフェア(公正)で、厳格です。個々人の行いに光を当て、想いを覗き込み、記憶の奥底まで明らかにします。いかなる取り繕いも、人種的な優越感も、全ての儀礼的なものも、考慮もされません。私と神、私とイエス様、私と聖霊。個人として見なされ、評価され吟味されます。
背筋が凍るこの場面。それでも暖かな手が差し伸べられています。先ずは「良心」、次に「信仰」、そして「約束」。
アダムとエバが神に反して食した「善悪の知識の木」。人が神から離れるこの行為を通してすら、悪を善に変えて、神は人に「良心」を与えます。そして、邪悪さの奥底に落ち込まぬブレーキ役として機能させるのです。全ての人が「神」を意識できるように、全ての人に良心が備わります。但しその機能の強弱は人によって異なりますし、良心は清め続けなければ濁るし淀みます。神はそうした個々人と向き合われるのです、誠意を持って。そして信仰を持つものに約束されている「救い」が待っています。
次回のテーマはその『用意されている「救い」』。もう何度か聖書を読み返し、メッセージを聞き直し、ヨシェルの名の通り「直ぐな心」で学びを続けたいと思います。信仰者にとって大切な警告も示唆もアドバイスも、今回もたくさん語られました。映像・資料を通して更に深くお学び下さい。
感想
- ローマ人の手紙は内容が濃く、講義を聞きながら、理解が追いつかない難しさを感じました。素直に心に残ったのはローマ2章17~29節で「割礼と無割礼」の真の捉え方は何かを学ぶことができました。これはユダヤ人と異邦人の捉え方とも交錯し、興味深かったです。 又、「良心」とは「「善悪を見分ける心」とあり、アダムとイブが罪を犯した直後すべての人の内に機能し始めた。この良心、現在の世の中ではだいぶ鈍く、膜が掛かってきていると思わされました。
- 神は自然や人間を含めた被造物を通して存在を自ら証しておられ、「神を知らなかった」と弁解の余地はない。神から選ばれ律法を与えられた特別な民であるユダヤ人もそれを完全に実践することができず、むしろ人を裁いている。今は罪に「はばまれた」状態、「引き渡された」状態にある。心の空白を何に委ねるか、神か罪か…。 全ての人が裁かれる日が来る前に神(キリスト)の贖いの恵みに立ち返ることの必要を伝え、自らも心を見張って過ごし、独善、自己愛、自己甘言を悔い改めて、みことばへの従順に歩みたいと願わされました。導きに感謝します。
- 今回の聖書箇所は何度読んでも理解することが難しく、なかなか心にストンと入って来ませんでした。人の罪の実体、神の義、神の裁きの原則など、講義を通して少しずつ頭の中が整理された気がします。神の怒り(義)は人そのものに向けられるのではなく、神を神として崇めない不敬虔や邪悪さなどに向けられる。人は神からの怒りというブレーキがかけられないと、自ら悪を止めることができない存在であるという説明に納得しました。不正が蔓延っている現在は神を畏れる時であり、悔い改めて主に立ち返る時であることを強く思わされました。個人としてまた国としても神による聖めが必要であることを覚えます。執り成しの祈りの大切さを実感しています。
- 今日も沢山のことを学ばさせてもらいました。特に興味深かったのは、人は本来自己愛的な存在であるということ。昨今、「自分を受け入れ、自分を愛しなさい」という自分中心的な考え方が良しとされている傾向があるように思えます。偽りの教え、自己愛、自己甘言、自分を正しいと思い込む「独善」に対しては、明確に否を唱えている聖書のみ言葉を通して、自分自身を吟味しなければいけないと思わされました。
- 罪と悔い改めのことが詳しく語られ、説明され、よく分かりました。最後に救いについても家族に未信者がいる者にとって、希望が語れたことが感謝でした。
- 一人で学ぶ時には解らなかったことも、先生の細かなことの説明・教えで理解できたと思います。神・み霊の導きに感謝します。