レポート
2021年5月11日に第71回ヨシェルの会がネット開催されました。
コロナ禍による緊急事態宣言が延長され、会場が使えなくなりましたので、急遽ネット配信に切り替えました。オリンピックを直前に予定しつつも未だ収束が見えない状況が続きます。前回はイスラエルの過去を学びました。今回はイスラエルの現在と未来について。ロマ書10章〜11章10節までを紐解きながら、私たちへのメッセージを探ります。語られる師と参加/視聴して下さる皆様と主の導きに、只々心から感謝します。
今日のタイトルは「使徒パウロの宣教 その34」。
一節毎の解説よりも、その文書の背景や文脈の解説に時間が割かれます。ユダヤ教の高名なラビの死後公開された文書(イツハク・カドゥリの遺産)、キリストの初臨時のユダヤ人の期待と反応、自分の義と神の義、誰ひとり漏れなく救いたい神の一貫した姿勢、パウロの反論(ユダヤ教徒の精通しているモーセ・イザヤ・ダビデを通した立証)方法、ユダヤへの祝福が教会へと変換していく置換主義の道筋とその矛盾…。
メッセージを聴きながら、視界が広がる気持ちと、そこに広がる広大な神の想いに目眩がする気持ちとが入り混じります。原語や語源の知識、時間順での起こったことの整理、人が勘違いし易いという認識、だからこそ必要となる「(自分たちの)常識」を疑う視点、俯瞰的な聖書と歴史への視点、より深く恵み深い神の計画への期待感…。一人では学べるはずがないと感じつつ、こうした解説に触れる機会をも神が私たちに備えてくれていたのかという感覚もよぎります。
二千年前に、イエスを自分たちが望んだメシアとは異なると拒絶したユダヤ人。そのために先に異邦人に福音が広まり、妬みが起きる。その妬みを引きずりながら、旧約聖書にしがみつく姿。でも、実は高名なラビがイエスを信じていたという事実も、小さな「ともし火」の様に明らかに蓄積されています。暗澹たる気持ちとともに、微かな希望も感じるさせる小さくも大きなニュース。
ユダヤ人への祝福を、その罪が故に教会が引き継いだと主張する大部分のキリスト教会の流れ。自分の罪を告白し赦しを乞う事を軸足にしているにもかかわらず、ユダヤ人の罪をことさらに強調する姿。妬みとは何なのか、神の約束とは何なのか、人の欲とは、自分たちだけが特別だと思いたい気持ちとは、自分たちが見たいと切望する未来とは…それが神の計画された未来と異なったなら…。私たちは実は二千年前と同じことを繰り返そうとしているのではないか…。
このタイミングで、現実のイスラエルでは、ハマスとの交戦が激化しています。国際的な交渉も活発化していますが、混沌さは増すばかりです。軽率な現状分析はすべきではありませんが、自分たちの「義」を自力で成そうとする行為は、どこか歪(いびつ)さを孕(はら)んでいるように見えてしまいます。神の義がこの地にも、この世にも成されることを心から祈ります。
不幸で混乱の続く時代でも、神は「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある」と伝えてくれます。私たちには、正しく学び、正しく伝える責任があります。一般啓示と特別啓示の話も出ましたが、もう「知らなかった」「知らされていなかった」…そんな言い訳も通用しなくなってくるのだろうとも予感させてくれます。インターネットがここまで広がり、現に今回のヨシェルの会も急遽ネット配信対応ができています。真実を求める姿勢を神は喜ばれる。私たちに求められているのは、求め続け、聴き続け、語り続けること。時が早まっている気がしてなりません。
未だまだ道は続きます。信仰者にとって大切な警告も示唆もアドバイスも、今回もたくさん語られました。音声動画・資料を通して更に深くお学び下さい。
感想
- 今月はネット配信。それにも関わらず、熱心な講義。いつもながら講師の丁寧な御言葉の解き明かしの深さと濃さに感謝します。 イスラエル人が救われることを願ったパウロ。福音を語っても信仰の義を知らず、いえ聞こうとせず、律法の義を求めたイスラエル。心をかたくなにするとは霊的な眠気、心の麻痺、盲目、耳が聞こえない状態をいうのであり、頑固に拒否する強い態度ではないということに気付きハッとさせられました。 クリスチャンになっても形だけで祈ったり、奉仕しているから、献金を忠実にしてるからだけでは心は鈍くなり頑なになると思わされました。 イスラエルは今も尚メシアが来ることを待ち望んでいる。そんな中、高名なユダヤ教のラビが死後公表した手記にイエスキリストがメシアであることを記述していた。このラビの願いはどのくらい実を結んでいるのかと気になります。
- 「口でイエスを主と告白し、心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、救われる。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる。」大切な信仰告白について再認識でき感謝。その告白のために宣べ伝える人が2000年を経た今日こそ必要ではないか。また、第1コリント12章3節に「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません。」とある。選びは主の主権にあると前回学んだが、私が遣わされる人と時のために宣べ伝える備えはしておきたいと願わされた。
- 今日の学びは自分自身が信仰告白へと導かれた箇所でもあります。特に10章13節の「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」というみ言葉が頭から離れなかったことを思い出しています。その「だれでも」という言葉、そこにはイスラエルと異邦人という深い意味が込められていることを改めて実感させられています。選びの民であるイスラエルがメシアを拒絶したことによって、私たち異邦人に救いの道が開かれたということ。しかし神のイスラエルに対しての選びと約束は変わることなく必ず成就し、復興の未来が待ち受けているとのこと。神さまの偉大なご計画がどのように成就するのか楽しみです。
- み言葉の丁寧な解き明かしと有意義な情報をありがとうございます。パウロが異邦人とイスラエルをどう関連づけているのか、興味深い学びでした。個人的には特に10章6-7節のみ言葉が理解出来ず疑問のままの状態でしたが、今回の解説を聞いて納得できて感謝でした。