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第94回)黙示録:質疑編

レポート

2023年5月9日に第94回ヨシェルの会が開催されました。出席者は11名。

黙示録の学びが終わったところで、ホームページなどに寄せられた質問への対応として、特別編として実施させていただきました。迷いながら悩みながら聖書の解釈を、より深くより正確に…各人のペースと真摯さで学び進む工程を、少しだけ共有しようという試みです。師からの補足説明が、想定以上に熱く語られましたので、Youtube配信も含めて実施することとしました。相変わらず、この世は悪い方向へとじわりじわりと進んでいるように感じてしまいますが、主の光が二千年も前から示されていたと思わざるを得ない時間となりました。語られる師と参加/視聴して下さる皆様と主の導きに、只々心から感謝します。

今日のタイトルは「ヨハネの黙示録:質疑編」。

学ぶ聖書箇所は、主にヨハネの黙示録というよりは聖書全編。出エジプト〜福音書〜手紙…色々な箇所を見ながら進みます。会場では、PDFに記されてある質問と答えを皆で読み、師が補足があれば詳細説明を行うという流れです。

●資料)Yosheruと黙示録の関係一覧
15回にわたっての説明と聖書箇所との対比表です。

●質問)聖書はどのように成立したのか
導きと記録と再考と。補足はありませんので、PDFをご覧ください。

●質問)どのように学べば良いのでしょうか?
自習が望ましいが、助けはあったほうが良い。補足はありませんので、PDFをご覧ください。

●質問)イエス様が十字架に架けられたのは金曜日?
「一人で学べるルカの福音書(p185)」には下記の表が記されています。聖書にはイエス様が復活に要した時間が、「三日」と「三日三晩」の2つの表現でされていますが、その両方を満たすには、木曜日でないと矛盾が生じます。ユダヤ暦が夕刻から始まることが、計算をより複雑にさせますが、ご自分でも作表して見て下さい。 改めて時系列で整理してみると、偶然と言うには余りにも計算され尽くされた時系列で大きな出来事が並んでいると思わされます。そもそも見世物の刑であるのに、さっさと吊り降ろされたり、安息日が重なっていたり、罪人なのに墓に葬られることが許されたり…。時系列順に並べながら、より多くのことが学べそうです。


●質問)艱難期後携挙説では、ある意味「時を定める」ことになるのでは?
聖書では順番が非常に大切な事柄です。別の言い方をすれば、順番を間違えると、解釈そのものを間違うことになりかねません。なので、艱難期の前に何が起こるのか、後に何が起こるのかは、きちんと学べるときに学ぶべきことですね。

●質問)パウロは携挙の時期を知っていたのか?
期せずしてパウロの期待と苦悩が垣間見える説明でした。どの時代も、自分たちの解釈と主の定めたことや伝えたいことは異なるものなのでしょう。パウロでさえ、何度も再考している跡が見えるのは、逆に励ましになります。答え合わせは、再会の時だと改めて感じます。

携挙の時期を考える際に見落としがちなのは、信徒がどう救われるかだけではなく、「死」がどうなるのか、「復活の体」はいつ与えられるのか…など複合的に起こるとされていることの成就です。下記の箇所は再読をお薦めします。ラッパの響きによって民が集められ、その喜びの中で、悲しみや死が滅び去ります。

▼参考:(神の)ラッパは下記3箇所のみ(邦訳では他も含めて「ラッパ」と訳され区別はつかない)
  • 出エジプト19:16(角笛)
  • Iテサロニケ4:16-17(神のラッパ)
  • Iコリント15:51-52(終わりのラッパ)

▼参考:死の撲滅
  • イザヤ25:8(永久に死を呑み込まれる)
  • 黙示録21:4(もはや死はなく)

更にヨハネによる再臨についての記述にも触れます。驚くことにイエス自身が、信徒が艱難期をどのように過ごすのかを祈っておられます。これ程に明確な記述があるのに、論争が起こること自体が不思議な気がしてきます。
  • ヨハネ17:15(わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです)

そして「永遠のいのち」にも触れます。

  • ヨハネ17:3(…神…と…イエス・キリストを知ること)
ヨハネ福音書は、イエスの行いを記す書物を収めるには世界でも足りないと終わっています。神とイエス自身を知り尽くすには、永遠のいのちですら足りないのかもしれません。まさに、知り尽くせないものに触れ続けられる特権こそが、永遠のいのちなのかもしれません。
▼参考:「知る」とは?
  • 実践的(思惑的ではない)
  • 経験的(理論的・パターン化ではない)
  • 霊的(知的・統計的ではない)
  • 積み上げる活動的(無活動ではありえない)

●質問)守りとは?
直接的な回答はPDFをご覧ください。ただ、マタイ25:31-46(羊とやぎ)の箇所にも触れます。守られていることに違いはありませんが、その意味が何であるのかについての考察です。艱難期で苦しみながら生きながらえるキリスト者に対して、人々がどう対応するのか、それが一人でも多くの人間を救いたいと願う神の視点なのかもしれません。

●質問)殉教者について
朽ちる肉体の死と、蘇りの体(朽ちない体)についての説明がなされます。

●質問)イスラエルの7つの例祭について
4つの春の祭は既に起こったこと、3つの秋の祭はこれから起こること。現時点では、未だ起こっていない未来の出来事を推測で考えるしかありません。携挙・艱難期・千年支配(永遠の御国)の三つの出来事しか頭になければ、そう対応付けするしかありません。しかし、携挙と再臨・祈りのとき・永遠の御国の三つと考えれば、別の答えが導き出せます。何を前提とするのか、どう区別するのか…考え方の分岐点は山の様にありそうです。

説明を聞きながら、どういったお祭りなら心から喜べるだろうかと考えました。災難や災いが起こらないように祀る(祭る)可能性はなくはありませんが、どちらかと考えれば良いことを祭る方が理にかなっている気がしてなりません。詩篇51:17(神へのいけにえは、砕かれたたましい)と照らし合わせても、砕かれた=悔い改めた=切実に祈る…ことを忘れまいとする祭りの方がふさわしく思えてしまいます。

誰かの疑問も、探究心も、苦しみも、不安も、聖書を深く読みたいと願うほど強まるものだと思います。でも、そうした葛藤はシェアしたなら少し軽くなるかもしれません。独学で主が私に語ってくれることを学ぶのが望ましいのでしょうが、そうそう巧くは行きません。学び合い、教え合い、試されながら進んでいく道が祝福に満ちますように。信仰者にとって大切な警告も示唆もアドバイスも、今回もたくさん語られました。音声動画・資料を通して更に深くお学び下さい。