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第93回 ヨハネの黙示録 その15

レポート

2023年4月11日に第93回ヨシェルの会が開催されました。出席者は16名。

新しい年の始まりを様々な想いを込めて感じたと思ったら、既に1/3が経過しています。諸々のこの世の出来事に押し流されつつあると思うが故に、聖書の言葉にしがみつける学びの時間が貴重なものとして輝きます。黙示録も今回でいよいよ最終回。15回もの時間が守られてきたこと自体への感謝と、二千年の間幾人もの人がここに書かれていることを理解しようと努めてきたのだろうという不思議な連帯感(同窓生感)。悲惨な描写が色濃く印象に残る預言書なのに、最後は希望にあふれています。語られる師と参加/視聴して下さる皆様と主の導きに、只々心から感謝します。

今日のタイトルは「ヨハネの黙示録 その15」。

学ぶ聖書箇所は、ヨハネの黙示録22章6節〜21節。冒頭に記された「この預言のことばを朗読する者」「それを聞いて、そこに書かれていることを守る者たち(黙1:3)」に再度信じて無駄にならないことが宣言されます。「これらのことばは真実であり、信頼できます(黙22:6)」。励ましの中、新しい世界の描写がなされ、希望を待ちわびる祈りで終幕へと進みます。

そして、聖書という壮大な物語の著者は、冒頭に戻るかの様に筆を置きます。人は、「いのちの木」と「善悪の知識の木」が生える園で生まれ(創2:9)、そこで罪を犯し神に背きます。しかし信じる者には、この「いのちの木の実を食べる権限」が与えられるのです(黙22:14)。物語が全ての伏線を回収しつつ終幕を迎えます。しかも、当初の「それは非常に良(創1:31)」い状態に戻るのです。

善悪の知識の木の実を食べた人間が、驕り高ぶって命をもないがしろにしていく時代に、命の尊さと神がそれを必死に守ろうとしている姿勢が、聖書理解の深まりとともに胸に刺さります。自らの富や利権のために他人の命を売り飛ばすような人間たちにさえ、「いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい(黙22:17)」と最後まで招き続けてきます。皮肉とも愚直とも警鐘とも映る、約束したことは守り通すという神の堅固な姿勢と覚悟が垣間見えます。

時の速さに関しても学びます。「カイロス(機会としての時)」と「クロノス(潮流としての時)」。日本語には表せない想いがギリシャ語まで遡ると見えてきます。でもギリシャ語でも表せない想いが神にはあるのかもしれません。印やタイミングを知りたがる人間に、もっと命そのものの大切さを理解せよと語ってくれている様にさえ見えます。

新しい世界に存在するものや、存在しないものを学び、また考えます。いつしか聖書は、「我(自分)」と「敵」という世界観から、「不正を行う者(黙22:11)」と「自分の衣を洗う者(黙22:14)」とに二分される世界となっています。信徒を襲う敵や、その敵の殲滅を祈る描写は、旧約聖書に特に多くあります。新約の時代になり、そんな「汝の敵」を愛せよと、無理難題が課されます。神なしには人にできないことがゴールに据えられます。しかし、新しい世界では「悪」そのものが存在しえません。そして、そこで問われるのは、「あなたは、不正を好みますか、それとも自らの衣を洗いますか?」。富も身分も知識も血統も無関係な「問い」であり、私の覚悟だけが問われます。そしてその問いの裏側にあるのは、不正をなす者とは私(神)自身が戦うので、そんな輩に振り回されなくてよいという誓約です。憂いなく、恐れもなく、あなたの答えを聞かせてくれと、神は問いかけます。

目を直視されながら問われる場面ですが、神と人間の関係も変化してきている様に見えます。ダビデらが「いつまでですか」と裁き主なる神の到来の遅さを嘆くように訴えた叫びが、信頼の中で「(はやく)来てください」という喜びを待つ期待に変貌しています。神は数千年をかけて人間との関係を熟成させるかのように変化させてくれているのかもしれません。

この黙示録の中に記されている人間が受ける災い(嘆き)よりも、人間に裏切られた神が被った被害(嘆き)の方が実は深刻なものなのかもしれません。そして、それでも神は「すぐに来る」と宣言し、更に締めくくりとしてヨハネにもう一度書かせます、「主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように(黙22:21)」。これは綺麗事でも流行り言葉でもありません。『「その名はインマヌエルと呼ばれる」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味(マタイ1:23)』、私たちはこの聖句の成就の証人になるのかもしれないのです。信仰者にとって大切な警告も示唆もアドバイスも、今回もたくさん語られました。音声動画・資料を通して更に深くお学び下さい。

PS. 次回は参加者だけでヨハネの黙示録を復習する回とする予定で、Youtube配信はありません。あしからずご了承ください。

感想

  1. 21章では、神の国の新しい都エルサレムが十二の宝石や真珠、純金でできている素晴らしい美しさであり、聖であるとされた者たちが、主の栄光に照らされて主に仕える至福の日々が永遠に続くという、素晴らしい光景が描かれていましたが、今回の22章ではそれに先立ち、神の時に速やかに報いを携えたキリストが来てくださることを「見よ、わたしはすぐに来る」と三度も語られていました。昨今の神の創造を越えようと挑む驕った人間、聖書の価値観を打ち壊そうとする勢力、弱い者が虐げられ、捻じ曲げられる真実や正義、本当に「主よ、来てください、助けてください!」と叫びたい思いです。しかし、まだまだ、大患難はこれからが始まり、キリストは最後の章まで「いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」と、福音を、救いを語りなさいと私たちに告げておられることに心が留められました。学びに感謝します。

  2. 黙示録の学びも今日で終わり、長かった気がしました。振り返ってみて、頭に残っている事柄は何だろうと自問する。創世記から始まり黙示録に至って初めて、聖書が神の人類救済のためのご計画を記してある書なのだと理解できた事。艱難の度合いはこれから増大し、愛が冷め、希望を失っていく世界が今以上数倍にやってくる事。「今のこの時の苦しみはのちに現されようとする栄光に比べると言うに足りない」というみ言葉があり、「のちに現わされようとする栄光」の意味が具体的な映像となって理解することができた事。新天新地、神のエルサレムの希望を、天の御国の福音を、自分の周りの友人知人に伝える使命を神から与っているのだと感じました。次の学びも楽しみです。講師の健康が守られ、祝福された学びとなったことを感謝します。

  3. いよいよ最終章の講義となりました。今回は明るい未来の描写ゆえに心穏やかに落ち着いて講師の語ることに耳を傾ける事が出来ました。ギリシャ語の「時」、カイロスとクロノスの違いの説明は興味深かったです。「時は近い」の時の意味は私たち人間の考える時間の概念ではなく、神のとき・劇的な瞬間・重大な転機の意であるとの事。「すぐに」という表現も、「速やかに、急いで」の意であり、動作を表しているとの解説に納得がいきました。イエスさまの十字架と復活からすでに2000年近くも経っているにも関わらず、再臨がまだであるという現実も「ペテロの時の公式」を理解するならば、受け入れやすいと思いました。1.68秒、一瞬のうちに天において成される様々な出来事を思い、神の知恵の偉大さと不思議に感嘆し御名を崇めます。これまでの黙示録の丁寧な解説に心から感謝いたします。ありがとうございました。

  4. 聖書は至福の園で始まり至福の都で終わるという。エデンの園で始まった人類史は罪と悪の繰り返しで、悲しみと苦しみの歴史である。しかし最後は全き聖さと喜び、神の栄光で締めくくられる。初めであり終わりである真実なる神のおられる都に入れることは素晴らしい特権であり光栄そのものです。ユダヤ式の結婚・婚姻、ペテロの時の公式などの解説は興味深かったです。神の時と人の時の違いの説明、納得出来ました。今は終わりの時代であり、時が迫っているがゆえに、救いの福音を語るというよりはむしろ永遠の神の国・御国に入るための福音を語ることの重要性を強調された講師の言葉が心に響き緊迫感を感じました。愛する方々のために執り成しの祈りを捧げると同時に、主の招きに、「主よ、来てください」と応答する日々です。これまでの真摯な講義に心から感謝しています。ありがとうございました。

  5. はっきり整理されていなかった“難しい“黙示録が分かりかけてきた気がします。時間をかけてゆっくり読み通してみます。ありがとうございました。

  6. 世は信仰・希望・愛すら感じられません。神なくしては無理なことです。聖書は至福の園で始まり、至福の都で終わる。私は聖書は礼拝で始まり、礼拝で終わるのだと思います。キリストの裁きの座(ローマ14:10)、1.68秒の間に起こるは興味深いことでした、又驚きでした。

  7. 今は、混乱が増しました。

  8. 家でみことばを引いて読んでみます。ありがとうございました。