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第18回 終末論(質疑編)

レポート

4月12日に第18回ヨシェルの会が開催されました。参加者は23名でした。 風で舞っている桜の花びらを目にし、神さまの美しい御手の業を喜び、感謝を捧げての学びの時間。特に、今日はいつもの流れとは違って、質疑応答を中心にするとのことで、疑問解消を心待ちにしていた方も多かったことと思います。創世記から終末までの神さまのご計画を再確認する良き機会となりました。

今回は、前回までの5回の終末論の学びを終えたことを機に、復習と質疑応答を中心とした学びの時間となりました。 先ず、フルダ先生の著書、「一人で学べるキリストの啓示 『ヨハネの黙示録の預言』」に掲載されている「あなたはどこにいますか?」p9のチャートに基づいて、天地創造から終末に関しての流れを丁寧に解説してくださいました。

このチャートは「サタン退治物語と人類救済計画:艱難期後携挙説Rev.4」というサブタイトルが付いているもので、A3サイズでカラーコピーしてあり、とても鮮明で分かりやすい資料です。聖徒(主を信じる人)、未信者(福音を聞いたことのない人)、不信者(福音に触れながらも信じない人)が位置するところは何処なのか?今後どのようになっていくのか?…簡潔に図式化されており、目で追いながら講師の説明に耳を傾けることが出来ました。神さまの遠大なご計画が図式化されたチャートは理解を深める意味でとても大きな助けとなってくれました。

続いて終末論に関しての質疑応答。そして三位一体や伝道の仕方などに関しての質問や意見などがたくさん出されました。これらの質疑応答に関しては整理をして、レポートという形で後日、ネット上に掲載したいと思います。

私たちの住んでいる世界に起こることは全て神さまの遠大なご計画の一部であり、そしてそのことを神さまは聖書の中で語っていてくださいます。聖書の中に記されている宝探しの旅に今日もご一緒しましょう。

質疑内容

神の国とは?
Q:神の国について。キリスト教会ではよく神の国はすでに来ているという。マタイ12:28で「もう神の国はあなたがたのところに来ている」、ルカ 17:21で「神の国は、あなたがたのただ中にある」などを根拠に人の目に見えるような形ではないが平和や愛などのかたちですでに来ているという。一方で、例えば主の祈りでも「御国が来ますように・・地にも来ますように」と祈っている。私が神の国とは何かと聖書全体を読み考えると、またイエス様の山上の説教などからも、今はこの世で悲しんでいても将来慰められるのだと思うとやはり神の国はイエスの再臨と共に来る千年王国もしくは新天新地を指しているような気がする。その方が旧約のイザヤ書の預言とかパウロが語っていることがよく分かり聖書が読みやすい、この二面性と言われる神の国について教えてほしい。
A:これは教会の問題でもある。キリスト教神学は神の国と言った時に「メシヤの御国」を語らなかった。キリスト者にとって旧約は終わった、イエスによって救われた者は天に行くと直結してしまった。主の千年支配や主の再臨を何も語らなかった。
しかし、旧約の預言者たちが「神の国」が到来すると告げたのはこの千年支配のことであった。メシヤが来られ、地上で支配される、そのメシヤはユダヤ人、イスラエルのメシヤであると、ずっと語ってきた。 これはイエス・キリストの山上の垂訓にも表れている。今この世で楽しめないこともメシヤの支配下であればそのまま祝福として返ってくる。サタンの攻撃、誘惑のない理想的な王国として語られている。
旧約の預言者たちが語った「神の国」は新約にも引き継がれた。 キリストご自身、メシヤとして地上で治めるためにもどって来ると語られた。主の祈りの中にも「御国が天におけるがごとく、地にも成るように」とある。
「メシヤの御国」はアブラハム、イサク、ヤコブを通してユダヤ人に約束されたことで、聖書が語っているように、それは必ず成就するということである。 ユダヤ人にとっては「メシヤの御国」、キリスト者にとっては「千年支配の神の国」である。だから地上はまだ滅びない。主の千年支配の後、天地の滅びが来る。
実際には、この千年支配を待っていないのがキリスト教神学で、聖書に語られていることをそのまま反映しているのがこのチャートである。H兄弟が作成されたこのチャートは、神のサタン退治と人類救済のご計画を図示したもので、一目瞭然、人類史の最初から最後までを見事に表している。もっと多くのキリスト者に、遠大な神のご計画を知ってほしい。
二面性というのは、信じる者はもうその御国に入っている、しかし、原則として知ってはいるが実際問題としてまだ経験してないということである。それはヨシュアがカナンに入った時に、約束としてカナンの地はすでに自分たちのものであったが、戦って所有しなければならなかった、と同じである。「千年支配の神の国」も、信じる者は原則としてはすでに受け継いでいるが、実際にはまだ入っていない、所有していないという点で、両者は比較できる。主が再臨されるとき、約束は完全に成就する。
三位一体について
Q:三位一体について。友人に話すとき、イエス・キリストの誕生については歴史の年表で知っている人は多いが、キリスト教の主軸は何かと聞かれた時に、三位一体の教理をどう説明したらよいか。
A:キリスト信仰というのはキリストという唯一真の神を信じる信仰で、一神教である。 この神は聖書では大変複雑なかたちで表現されている。例えば、創世記で 神が登場するが、主語は複数なのに動詞は単数で書かれている。三つの異なった位格の神なのに行動は一人。これは謎である。
ヘブル語(旧約)聖書を読むと、アブラハムに御使いが現れたとある。実際には神であるが神とは書かれていない。そういった複雑な神を一言で表すと「三位一体の神」で、キリスト信仰の神を表している。聖書の中に三位一体という表現はないが、 一言で言えない神を一言で表しているのがこの表現である。
旧約から新約において、私たちにご自分を顕すために人間の目に見える手段をとってくださったのが、受肉されたイエス・キリストである。この方は、ヘブル語聖書で神にしか用いられない言葉で表現され預言されてきた、つまり、ご自身神ということである。そして、この方は亡くなり私たちに命を与えてくださった。
イエス・キリストは肉体を伴っていたので宣教の場が限られていたが、天に帰られて後の今の時代には聖霊なる神が来てくださっている。この神は遍在でどこにでもおられる。求める者のいるところどこにでもいてくださり、今は福音がどんどん伝わっている時代である。
このように神の人間へのアプローチは父なる神のアプローチ、子なる神のアプローチ、聖霊なる神のアプローチと、「異なるが一つの神」としてのアプローチとなっている。私たちは三位格の神を違う側面から見ている。これを一言でいうと三位一体である。この教理は聖書を読んでいけば自然に解ってくるし、信じざるをえなくなる。
伝道・証について
Q:伝道について。素晴らしい福音をいただいたので、よく友人や親せきに証をしている。自分自身は小さい時に何か大きい存在がいるなぁと感じていた。しかし、証をしても「私はそんなもの信じない」という方もいれば、「全く関心がないわけではない」という方もいる。
そういう時は「マタイの福音書に『求めなさい、そうすれば与えられる、たたきなさい、そうすれば開かれる』と書いてあるから求めてちょうだい」と言う。得てして、「キリスト教はいやだ」とかえって来るが… そのような方には、「キリスト教ではなくイエス・キリストを伝えているのよ」と、キリストにある喜びを語るようにしている。人々が関心を持ってくれる証がしたいがどうすればよいか。
A:キリストに生きているということ自体がもう証人ということである。たぶん周りの方々はMさんの存在と交わりを通してこの人は自分たちの知らない神を信じていると、理解していると思う。ある意味でこれが証である。
いつも主との関係の中で物事を考えている人は、自然に人との交わりの中で神の存在を讃えているものである。この世の問題について尋ねられた時に、「私はこういう時にはこう考える」ということで証ができる。神に生きている者はそうでない者と問題に対する考え方が根本的に違っている。だから聖書を最初から紐解いて語らなくても、ご自分がどれだけ聖書のことばに生かされているか、何が書かれているかを伝えながら、主との関係をしっかりもっていれば主ご自身が自然と証人としての役割を果たさせて下さると思う。
未信者が不利?
Q福音を聞くことなく亡くなった未信者の方々が圧倒的に不利のように思える。彼らは第二の復活にあずかるのか?
A未信者の中には異邦人が含まれる。キリストの時代に異邦人でキリストを受け入れた人たちはいた。彼らはキリストの再臨のとき、第一の復活に与る人たちで、もはや未信者ではなく、信者である。旧約の時代にも、異邦人で真の神を受け入れた人はいたはずである。そのような人たちは最後に黙示録20章に記されている「大きな白い御座」にて、その人がどういう行動をとったか、神のもとには全て記録されているので、それによって正しく裁かれる。だから、もし神の御旨にかなったことを行っていれば、第二の復活の後、地獄ではなく、天にあげられる人たちもいる。

福音にふれたことのない人?
Q. 日本人は何らかの形で福音を聞いている人が圧倒的だと思う。例えば映画や子供のころに読んだ偉人伝のイエス・キリストの物語などで福音に触れていると思うので、不信者ということになると思う。その方々が全員死ぬまでにクリスチャンになるとは思えず、ゲヘナに向かっている状態だとすれば、気がかりだ。
A. 今の状態であれば確かにほとんどの人がゲヘナ(地獄)に向かっている状態といえる。しかし、神さまは迫害や多くの苦難などを通して、人々が違った生き方をするような方向づけをしてくださると考えられる。 日本では単発的に色々な災害が起こっているが、もし同時進行的に起こったとすれば、今自分たちが求めなければならないのは何なのか、何が一番大事なのか、人々はもっと真剣に考えるようになるのではないだろうか。現在の日本は恵まれすぎているので、そういうことを考えない傾向がある。 しかし、万が一の場合、もしそれまでに福音を聞いていれば、その時に思い出して信じる人が出てくるかもしれない。その人がうるさいと思えるほどに、その人の中に残るほどに福音が語られているならば、いざという時にそのことを思い出す可能性はある。災いや危機など、そのような形で神がご介入されない限り、今の状態では多くの日本人は滅びに至ると思う。 福音宣教は決して無駄にはならない。たとえうるさいと言われたり嫌われてもいいので、福音を伝えることが大切である。
本当のクリスチャン?
Q.国としての宗教がカトリックだから、国民全員がクリスチャンといわれたりする。でも実は名ばかりであって、教会には全く通っていないし、聖書も読まない人がいる。形式的にはクリスチャンというカトリックの方は多いと思うが、そういう方はクリスチャンなのだろうか?
A. それは非常に難しい。ただ、今日は聖書が自由に読める時代なので、単に教会指導者に依存し、盲目的に従うという姿勢は間違いである。だから、その方は、その間違いを諭されれば、自分で聖書を開いて、今行われていることが聖書的であるかどうか、調べることができる。それにもかかわらず、もし仮に自分で何もしないならば、それはその人自身の怠慢であり、裁きの対象になると思う。
セカンドチャンス?
Q. 福音が伝えられていなかった先祖のことを考えるとき、その時代にはまず福音宣教はほとんどなかったと思う。その場合、その人たちは第二の復活にあずかり、白い御座にて裁かれることになるが、その人の一生の間に、神の御旨をなしたかどうかによって裁かれるなら、当然罪があるから、ほとんどが罪に定められ、地獄に行くことになる気がする。 その場合、セカンドチャンスという考えがあるように、第一ペテロ4:5-6、詩篇139:8-10、ルツ記2:20などの聖書箇所から、神は黄泉にもおられるとあるので、黄泉の世界での救いがあるように思えるが、如何だろうか?
A. 確かにそういう意見を持たれる方は非常に多い。ペテロの手紙の解釈に関しては、キリストが十字架の直後、黄泉に降って福音宣教されたとの解釈がおおかたである。カトリックなどは黄泉でも救いのチャンスはあるとし、そこを「煉獄の教理」の証拠の箇所としている。 しかし、ギリシャ語の「福音を宣べ伝える」という言葉は「宣言する」と訳すことの出来る言葉でもある。ここで翻訳に選ばれた言葉が原意通りかどうかを考察すると、それは「宣言」であって、イエス・キリストは十字架上で全ての救いを達成され、キリストを信じる者は永遠の命を得ることを、黄泉で宣言されたということである。
イエス・キリストは信じた人にその場でパラダイスにいると言われた。その時、キリストはあなたは黄泉にいるとは言われなかった。もし全員が黄泉に行ってそこでチャンスが与えられて、救われるとするならば、黄泉に行ってそこで教育を受けるという言葉になるはずである。 しかし、救われた者の待合場所、それが パラダイスである。身体はないが、霊と魂はそのままである。主とともに十字架にかけられ、キリストの救いを信じた一人の犯罪人に、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいる」と主が言われたということは、この地でイエス・キリストを受け入れた瞬間、行き先が決まるということである。否定すれば、違う行き先となる。
ただ、福音に触れたことのない未信者は、新約の時代でも旧約の人と同じように扱われる。第二の復活の時に、何の掟の束縛もなく自由に生きたけれども、神の御旨にかなったことを行ったというのであれば、そのような人たちは全員、天の御国に連れて行かれる。義とされた者はどんな状況下にあっても御国に入れられるので心配することはない。
しかし、福音宣教の時代、イエス・キリストを公にも個人生活においても否定するなら、その人は今その行き先を選んでいることになる。 これは新約の時代にははっきりしている。 イエス・キリストは、カペナウム、—キリスト宣教の本拠地、非常に不信仰な町— を例にあげられた。その時、異邦人の町が救われるとはっきり言われた。キリストの本拠地ですごい福音宣教がなされ、神のわざを目の前で見ながらも信じないならば、そのような不信仰な町を他の者が裁くと言われた。つまり、他の者たち、異邦人で宣教を全然聞いていない人でも救われる者がいるということである。正しい行動をしている者、真理を求めている者は神の御旨にかなう者たちといえる。しかし、それは私たちの目からはわからない。
例えば公の立場にあってどうしても信仰告白ができない人がいる。旧約時代のシリヤの将軍 ナアマンの場合、王と共に異端の神殿で礼拝せざるを得ない。それに対する答えは曖昧といえば曖昧であるが、そのようなことをしたらあなたはもう神を否定する者になるとは言っていない。状況は神がご存知。そういう状況下で心の中には複雑な思いがあるとしても、常に神を焦点において自分の道を歩むなら、神はそのことをも必ず良い方向に持って行ってくださる。
特に、信仰告白に至るまでの子どもは全員神の国に入る。神は子どもの魂の純真さを強調しておられる。神が造られた人間はそのように純真な者である。サタンによって罪が入り、罪に生きるようになるので、どんどん醜い大人になってしまう。でも生まれた子どもはたとえ肉に罪が入っていても、ある程度ことが分かるまでは本当に純真に神を信じることが出来る。 孤島に行った子どもが何も知らなくても神を信じたという証もある。子どもは神と直結していて、そういう意味で子どもはみな救われている。問題は、子どものことよりも自分自身が救われているかどうかである! 躊躇していてはその直後に死が訪れるかも知れない、それではもう手遅れである。罪の問題は肉の問題なので、この身体があるうちに決断する必要がある。身体がなくなった状態ではもう罪の問題は関係なくなる。黄泉に降って、魂と霊だけになったらもう遅い。黄泉に降って霊と魂の状態ではもう罪の問題は問われないので、そこでの福音宣教はあり得ない。
ペテロの手紙で福音宣教がされたと訳されている箇所は、キリストがそこで勝利の宣言をされたと読まれると非常に良く分かる。ペテロの手紙に二箇所あったと思うが、そのようにして勝利の宣言がされたとするなら、前後関係のつじつまが合う。ギリシャ語のどの訳をとるかではっきりする。
先祖の救いは?
Q.同じようにカトリックで育った私も、セカンドチャンスは必ずあると教えられた。そうでないと私たちの先祖はどうなるのか。私自身も先祖は黄泉で救われる可能性があると思っていた。
A.ルカ16:19−31の金持ちの訴えがこの問題の鍵になる。金持ちの訴えは、ハデス(黄泉)に至った自分に第二のチャンスを与えてほしい、自分はそこで頑張っているというのではなく、絶望である。大変な苦しみから少しでも解放されたい、もしこれがかなわないなら、せめて自分の兄弟に絶対ハデスに来ることがないように、警告をしてもらいたいというものである。
もしハデスに救いの第二のチャンスがあるなら、金持ちはこのようには願わなかったであろう。正反対に、ハデスは究極的な地獄、地獄に行くための死人の待合所で、そこに至った者は、第二の復活を経て地獄に行くことになるので、ルカのたとえでは、金持ちはすでに地獄にいるかのように描かれている。同じ「よみ」でも、ハデスとシェオルの描写に違いがあるのは、今日説明したように、旧約と新約時代の違い、福音の光に照らされたかどうかの違いがあるからである。
地獄は「ゲヘナ」(ヒノムの子らの谷、硫黄の燃える火の池)であるにもかかわらず、新約聖書では、「ハデス」を地獄と訳している箇所が十箇所以上もある。地獄についてはそのほとんどをキリストご自身が語られたが、これから用意されるところ(地獄に入った者はまだだれもいない)なので、神キリスト以外、ご存じない場所だからといえるかもしれない。
福音に触れた者は今、まだ身体があるうちに返答しなければならない。しかし、神のご介入は、その人にしかわからない形で起こることが多いので、この世で教会生活をしなくても、最期にはキリストを受け入れてパラダイスに召されるということは起こりうると思う。 特に、執り成しがされている人たちには神が愛の配慮で応えてくださるので、その人たちには死に至るまでに何度も救いに導く神のご介入があると信じる。
苦しみの末の妥協は許される?
Q. イエスさまを信じている私たちが艱難期に生きていたとして、その時に反キリストから自分を拝めと言われて、どうしようもなく拝んでしまった場合、状況を考慮して許されるだろうか?
A. それは許されないと思う。つまり拝めということは666の印を受けるということである。印を受けるかどうかには死の問題が関わってくる。この印を受けなければ、生活することができない、物を買えない、食べ物がなく死んでしまう。だから生きようとすればその印を受けることになる。 しかしそれは、キリストに反逆すると分かっていてこの世に生きるための行為であり、聖書の教えに反している。聖書の教えは死ぬも生きるも、キリストにあってはじめて私たちは生きるということである。
もし666を受けないことが、この世の常識では死に至るということであっても、その先には主の救いがある。この世、つまり 悪の体制下で生き延びるのではなく、キリストのもとに一足先に行くという選択。これは自殺行為ではない。 その選択をする者に、神はもしかするとカラスを通して食べ物を送ってくださるかも知れない。そういう奇蹟が起こらないとは言えない。神の守りの壁が備えられることによって、敵が襲うことができないということも考えられる。そういったことは実際語られている。666を受けなくてもあるグループは生き延びることが出来るように、主が配慮をしてくださる。
だから、印を受けることがキリストを否定すると分かっていて、受けてはいけない。私たちは肉が滅びても生きる、その信仰が大事。永遠に生きるということに重点を置けば、この世で生きながらえることはそれほど大事ではない。
間違った教えに目を向ける友
Q. 易学に凝っている友人がいる。商売でしている訳ではないが、良く当たるので、いろんな人から電話が来るとのこと。占いや易学とかはサタンからのものだと思うので、どのように説明してあげたら良いのか知りたい。また、友人はサタンからの行為をしているのだから、甦り(第一の復活)にはあずかれないということだろうか?
A. そう、お友だちは初めから主を受け入れていないのだから、第一の復活にはあずかれない。最初に、キリストを受け入れるかどうかの導入が必要。 もしキリストを受け入れるなら、これまでやって来たこと、今やっている行いを吟味する必要がある。
これをやってはいけない、あれをやってはいけないということよりも、何よりもお友だちが真の救い主を必要としているかどうか、それを感じているかどうかが問題になる。それは自身の罪の問題である。自分の中に罪があってそれを取り除いてもらいたい、そうしなければどうしようもないという必死な思いがなければ、キリストを受け入れることは難しい。これは宗教に入るということではない。
この罪の問題は、自分が公にいる時と一人の時とは違い、心の中でいろいろ悪いことを考えたりしているが、表面的にはとても良い人で通っている、そういう人は結構多いが、このことで知ることができる。二重人格である自分、そういう自分に気づけば、やはり真理を求めざるを得ない。神は自分が隠したいと思うことをご存知である。このことからの解放は自分の力ではどうしようも出来ない。自分の罪を意識して初めてイエス・キリストを受け入れることになる。
そこからスタートし、次に、聖書に従って自分のやっていることを照らし合わせ、聖書的でなければその道を止める。お友だちが本当に救い主が必要な状態であるかどうか、ご自身がそのことに気づいているかどうかが肝心である。そうでなければ、なかなか難しい。 教会の門をたたく方の多くは日常的な問題の解決を求めて来られる。つまりその問題さえ解決すればと、対処療法を求めて飛び込む。そして教会で色々な助けを得て経済的にも精神的にも楽になる。しかしそれで解決ではない。根本的な問題は罪の問題なので…
イエス・キリストは癒しをなさった時、いつも罪の問題に触れられた。そこが癒されなければ、時が経って、また同じような状況になると同じような問題が繰り返し起こる。それではいけない。つまり、根源は罪の問題である。だから、最初から罪の問題として語ることが大切になる。
お友だちには、なぜそのような異端的な占いが必要か、聞いてみる。そうするといろいろな問題が出てくる。その時、その人自身の罪の問題のある場所が分かってくる。そこで、その問題を掘り下げていくと解決に至るかも知れない。 どうしてそのようなことに凝るのか、頼るのかを探っていくと、お友だちは何か問題を抱えていて、そこから解放されたいと願っているのかもしれない。真の救いは神からしか来ないということを語るきっかけが得られるかもしれない。
間違った宗教?
Q. 自分の現在の環境が気になる。呪われたイチジクの木のたとえのところでキリスト教会も含めて、全ての宗教団体、呪われた宗教団体は滅びるとのことであったが、滅ぼされる宗教団体の中のキリスト教会とはどんな教会なのか?
A. まず、イチジクの木の呪いに関して、聖書には象徴的行為が多く語られているが、ここでは、預言者イエス・キリストの象徴的行為として語られている。 一つは当時キリストが直面されたのは、ユダヤ人の不信仰、ご自分の民の不信仰であったということ。それに対してキリストは裁きを宣告された。イチジクの木が呪われて一瞬のうちに枯れてしまったということは、ユダヤ人の築き上げてきた宗教体制が一瞬のうちに滅びることの予告で、このことを預言的行為を通して明らかにされたのであった。
イチジクはユダヤ人の象徴。イチジクの葉がものすごく多いということは、宗教団体として華々しく活動し、世の中の目から見ると存在価値がある。しかし全く実がないということは、神の目から見ると全く無意味な存在であるということ。実を実らせることのできない有名無実な宗教団体。それに対しての滅び宣言がされた。
イチジクと宗教の関係は、創世記の最初にアダムとエバが神の前に罪を犯した時に自分たちの罪をかばうためにイチジクの葉を使った出来事にさかのぼる。聖書に登場する言葉は、最初にどのような文脈でどのような意味で使われたかで定義される。その定義が全聖書で一貫して用いられるというのが聖書の原則である。 創世記の出来事では、宗教の意でイチジクの葉が用いられている。宗教は自分の力で自分の罪の問題を解決しようとする試みのことで、これがいわゆる宗教の意である。良い業をしたり、献金をしたり、平和のために努力したり、これらは全て、人間の業である。だから、どの宗教というのではなく、人間の力によって何かをしようとすることはすべて宗教である。
キリスト教という宗教も、キリストに依存、キリスト信仰に生きるというのではなく、自分たちで何かをすることが救いの道だと考えるならば、それはすべて間違った宗教団体ということになる。自分の力によって、何かをするということは神の目にはかなうことではない。 自分は罪人で何も出来ないが、しかしキリストが自分の代わりに全てを成してくださると信じる信仰。私たちには力はないが、キリストが変えてくださり、キリストが業をしてくださると信じる信仰。この信仰に生きることと、宗教に頼り、宗教生活を送ることとは全然違う。十字架でイエス・キリストは私たちの罪の問題を全て解決してくださった、それを信じる、それだけである。
報酬とは?
Q. 相続と報酬に関して。相続はいただけるものなので良いが、報酬とはどのような形のものか?
A. 天においては全てが平等と思いがちであるが、ダニエル書にも書かれているように、光り輝く星があり、星の輝きにも違いがある。そのように同じように救われるが、どのように用いられるかは様々である。全員、平等ではあるがその役割に違いがあるということ。天界の被造物にもいろいろな役割があると同じように、私たちも天の御国においてそれぞれ違った役割に預かることになる。
1コリント3章にかろうじて救われる者、真価が金・銀・宝石にみなされる者とが記されているように、信じる者は全て等しく救われるが、私たちがこの世で積み上げてきた業はみな違い、それによって授かる報酬は異なる。 救いに関しては、パウロは救いの筆頭に立つ代表的な人である。しかしそのパウロが、報酬を得るために必死に走っていると語っている。このように、神と一つになって、神の御旨が分かる人は、その報酬を求めて信仰生活を走り抜く人であるということがいえる。
ただ、『コリント人への手紙』のほかの箇所では弱い信者と強い信者の問題を扱い、強い信者が弱い信者の信仰をくじいてしまう危険を語っている。弱い信者はそのままの状態で救われているにも関わらず、強い信者がつまずきを与えることによって信仰から離れてしまうことがあり、強い信者の罪が警告されている。 私たちは自分のレベルで他の人を非難し、裁き、神から遠ざけてしまうことがある。この罪、小さきものをつまずかせる罪を聖書は大きく語っている。だから、こうしなければいけない、このレベルでなければいけないというようなことはない。
聖書の中で、マルタとマリヤ、ともにキリストの弟子であるが、性質、考え方は違う。マルタが自分のレベルでマリヤを非難した時、キリストはその間違った姿勢を諭された。同じ信仰を持って救われる人に関しては干渉してはいけない。相手の信仰をくじくようなことを言ってはいけない。報酬はそれぞれ違うがそれは神だけがご存知のことで、みな救われているのだから私たちはとやかく言えない。
実はキリスト教会の中にも、霊的に自分は上のレベル、あの人は下のレベルというような見方があるが、これは非常に危険である。そのような目で見てはいけない。救われる者をそのままで救われると神が認めておられるのであれば、私たちも認めなければいけない。報酬はみな違う、でも現時点でそのことを問うことは出来ない。報酬は、全てを走り終えた時に神から与えられるもの。初めから報酬が分かっていて、人を押しのけながら走るというのではない。この世の概念とは全く違う。 ただ、救われた後にいろいろな役割があり、その役割はその報酬に従って与えられる。光り輝く星もあれば、かすかに輝く星もある。でも、救われることが大事。だから、救われた者の中で絶対に差別をしてはいけない。神学的な優越感と同じように、霊的な優越感もあるので、陥らないように気をつけなければならない。
クリスチャンに対する裁き
教会の中の矛盾
Q. 確かに教会の中で霊的な差別がいっぱいある。また、現実問題として人を裁くことが多い。どうにかならないものか?
A. 御言葉に生きていないということだと思う。キリストは、はっきり「裁くな」と教えられた。裁きは主がなさること。ところが守られていない。ということは聖書が読まれていない。掟が分かっていればそうはならないはず。だから、キリスト者はもっと真剣に聖書を学び、神の掟を知る必要がある。救われていると思っているがゆえに安易な批判をしてしまうのかも知れない。
でも、小さき者に対する罪に関しては、本当に主は恐ろしいことを語っておられる。そのような者は首に石をつけられて海に沈められた方が良いというようなことが書かれている。にもかかわらず、教会ではそういうことがあり、危険である。 聖書を学ぶ私たちは本当の証し人にならなければいけない。キリストを恐れなければいけない。キリストは愛の神であるが、裁きの神でもある。裁きの白い御座に立たれるのはキリスト。私たちは第一の復活にあずかるので、裁きの座に立つことはないが、しかしそれでもやはりキリストが裁き司であることを覚えて、キリストに裁かれないような生き方をしなければならない。もし私たち皆がすべてそのような生き方をすれば、本当にキリストを信じる者の集いは素晴らしいものになるはず。そして、そうでなければならない。
神のご介入
Q. では、今の理論からいくと、そのように人を裁く霊的に高い人は、たとえその人に対する裁きは重いと言われても、天の御国に行くという約束はあるのか。では、どこでその裁きがあるのか?
A. 確かに矛盾しているように思えるが… すごく信仰熱心でキリストを信じ、聖書もよく知っている、しかし、行いがある限度を超えている人の場合、主はその人を完璧なものとして救うため、裁きをこの世で下される。だから、神によって裁かれたくないと思うのであれば、日々吟味して悔い改める必要がある。
『コリント人への手紙』に書かれているように、多くの人が主の聖餐にあずかりながら、どうして早く死ぬ人や病に陥っている人がいるのか。これは自分で自分の罪の問題の解決をしないので、神がそれをせざるを得ないということを語っている。どこまでいっても言葉や行いが正しくならない場合は、その人に神のご介入があるということである。でも、神のご介入は厳しい。もちろん、それを乗り越えてへりくだらされるので、それは救われるための過程ではあるが… しかし、できればそのような信仰生活ではなく、もっと多くの人に福音を伝えて一生を閉じたいとだれでも思うにちがいない。 そのためには日々悔い改めることが大切である。神からの大きな裁きにあうことがないようにいつも前向きに、そして周りの人たちの救いのために生きていくことができるように、自分のため人のために執り成していくことが大事である。
警告と訓練
Q. ということは、霊的に傲慢な人はこの世において、神の裁きがある。でもそれは悔い改めて救われるための警告の裁きである、ということか。
A. その通り。この裁きは救われるための苦しみである。でも、このことはこの世の主を信じていない人に当てはめることはできない。 信じている人で、すごい苦しみに会っておられる人がたくさんいる。特に、長い間素晴らしい献身の生活をして、後は静かに召されることを待ちたいと願っている時に、ものすごい苦しみに会う信仰者がいる。そのため、世の中の人は大往生出来ないような信仰は間違っていると思ってしまう。そのようにして間違った方向に人々を導いてしまうことがあるのは残念だが、しかし、それは救われるための戦いである。 とは言っても、罪の刈り取りは厳しいし、主からの裁きは恐ろしいことなので、避けることができればそれに越したことはない。そのためには、日々悔い改めて、主の前に正しい信仰生活を送ることである。
痛みや苦しみの意味
Q. 信者の苦しみは救いのためであるとの説明を、もう少し具体的に知りたいと思う。痛みとか苦しみを通して、今まで出会ったことのない神さまの憐れみとか癒しとかを体験させてもらえるということだろうか?
A. 例えばヨセフの話の中で、お兄さんたちが最後に苦しめられ、自分たちの罪を嫌でも思い起こさせられる不思議な現象が起こった。『創世記』には、それまで伏せていて、だれも知らないと思っていた自分たちの罪を、自分たちの内から自ずとその問題に気づかされていく、その過程が描写されている。
このことは全てが順調に行っているかのように見えている時に、どんでん返しが起こることを物語っている。伏せていた罪の問題に気づかされ、直面させられる。これが罪の刈り取りの問題である。救われる者に対して、神はそのことをなさる。言い換えれば、そのことがなされないまま、霊的優越感を持って、そして救いに至るということはあり得ない。もし、霊的優越感を持って、全然苦しみも裁きもないなら、その人は反キリストということになる。
『ヨハネの手紙』にあるように、キリストに従っているかのようにして教会の歩みの中にいるが、実は初めから私たちの仲間ではなかった。そういう人もいるということである。それがユダであった。イエス・キリストの弟子であるかのように一緒に行動していたが、 しかし初めから動機も違うし、一緒にいるかのように見えただけで実はそうではなかった。これは完全に背信の者ということになる。 教会(キリストの群れ)に連なり背信の者でない限り、神からの裁きを通して練られて、最終的には勝利の凱旋をしていくことになる。
刈り取りの期間
Q. 罪の刈り取りはいつまで続くのですか?
A. それはその人の刈り取りの内容による。何を刈り取るかによって、死の直前まで続く人もいるかも知れない。旧約聖書には、その人が罪を犯した部分に、同じ問題を抱えるようになる例が書かれている。しかし、何れにしても、救われるための苦しみである。それがなければその問題は未解決で残されてしまう。この地上において解決されないなら、死んでからは肉体がないので、肉体の苦しみはなく、問題は解決されないままになってしまう。
苦しみ=刈り取り?
Q. 信仰者の苦しみに関して。実際に病気とか家族の問題とかで苦しんでいる信仰者はたくさんいる。でも、そういう人の苦しみが報いであるとか悔い改めが必要な罪の刈り取りであるとのことだが、必ずしもそうとは限らないのではないか?
A. その通り。だからイコール(=)ではない。苦しんでいるから罪の刈り取りということではない。先ほども触れたが、今年は教会指導者の上にサタンの攻撃が強い。サタンの攻撃が強いということは、サタンが病をもたらす場合があるということである。ヨブ記がその例である。
霊の世界は本当に複雑。日本もサタンの攻撃が強くなってきている。サタンから来る苦しみもあるということを理解していく時代になってきているような気がする。だから、『エペソ人への手紙』にあるように、神の武具で身構える必要がある。ヨシェルの会では、そのようなことも学ぶ必要があると思っている。
クリスチャンの祝福について
Q. 苦しみということを考える時に、それに付随して、繁栄の神学のようにクリスチャンは祝福されて当然というような考え方は、陥りやすい罠ではないだろうか?
A. この世の祝福と信者の祝福とは違うと思う。ものすごく苦しんで亡くなっていくキリスト者を見て、むしろそこでキリストを証ししていると思う。非常な苦しみにあっても最後の最後まで神を捨てず、キリストに従い続ける。それが、キリスト者の本当の証しではないかと思う。大往生で全てが順調にいって、「では、さようなら。天国で待っているね」と言って、亡くなる例はむしろ少ない。最後までどんな状態にあってもキリストを捨てない。これがすごい証しであると思う。

感想

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第18回 参加者の声 | ヨシェルの会