レポート
9月25日に4回目の特別集会が開催されました。「私たちは、どのようにして神から聞くことができるのだろうか?」、これが今回のテーマでした。
「神から語られた」「神から示された」…クリスチャン仲間では、折りに触れ聞かれる言葉です。でもそれが本当に神からのものかどうか判断に迷います。
人は神の声を聞いても、それだと認識しない例として、サムエルとエリの会話(Iサムエル3:1-11)を見ます。神が語っているのに、それと気付かずに夜中に祭司を三度も起こす少年の話です。神の語りかけだと気がつけば、どう対応すべきかも書かれています。「主よ。お話ください。しもべは聞いております」。
気が付いた後の対応はわかり易いものです。でも語られる方法に様々なバリエーションがありそうです。聴覚によるもの、視覚によるもの、心情的なものなど。でも、それはまさに、Iコリント2:9-12にあるように、目や耳や心に、神が語りかけてくれているのです。そして、その対話にはある程度の訓練が必要なのかもしれません。そう、サムエルが三度試されたように。
心をこめて祈る時に、神の気持ちとの一致が生まれるのかもしれません。聖霊が神との仲介者になって対話が進むのであれば、聖霊の住まわれるところが重要になります。そこに焦点を合わせることが訓練の第一歩なのでしょう。ジョン氏はそこに想像力の大切さを加えて説明します。
メッセージの後には、参加者各自に一枚の紙が渡され名前を書きます。そしてそれが見えないように折りたたんで集め、それを再度皆に配りました。誰の紙が自分の目の前にあるのかは分かりません。しかし、それがどんな方であるのかを想像して、その人のために祈る時間を持ちます。そして、浮かんだ(与えられた)言葉を紙に書きます。
再度それぞれの紙が本人のもとに返され、今必要とされていたことが書かれていたかを確認します。この場では、全員が求めたものを与えられた訳ではなかったようですが、それでも多くの方が誰かの記した言葉に勇気づけられていました。
神が語られた言葉であれば、聖書を逸脱することもなく、相手の徳を高めるものであるはず(Iコリント14:3)です。神から言葉が与えられたと思ったならば、先ずはこのことを吟味することが大切です。自己満足に陥らず、独りよがりにもならず、与えられた言葉と向き合うこと。これが神から聞く最初のステップだとも言えます。
尚、今回は紙を受け取った後2グループに分かれ、どんな時に神からの声を聞いたかという証しや、語られる方法の違いについて分かち合いました。次回、これをどう発展させて行くのか楽しみです。
講師紹介
▼ゲストのプロフィール:
- ジョン・パーカー師
- 英国ダラム大学数学教授