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第40回 使徒パウロの宣教 その8

レポート

7月10日に第40回ヨシェルの会が開催されました。参加者は21名でした。厳暑の最中、久し振りに参加してくださった方もおられ、情熱あふれる講義を共に味わう良い時間となりました。

今回のテーマは「使徒パウロの宣教 その8」。 パウロの第二次宣教旅行の続きで、テサロニケからアンテオケまでの足取りを辿りました。聖書箇所は使徒の働き17章と18章を中心として、それぞれの場所の特徴と文化的背景、そしてパウロの宣教に関して詳しく解説してくださいました。

テサロニケは自由で裕福な都市でした。パウロは会堂にて聖書を解説し、終末論にも言及しました。しかし妬みにかられたユダヤ人によっていのちを脅かされ、わずか3週間という短い滞在で次に移動せざるを得ない状況になりました。信仰をもって間もないテサロニケの人々を案じるパウロは、様子を知るためにテモテを派遣し、そして彼らの質問に対して後に手紙を書きました。(次回はその手紙に関しての講義となります)

ベレヤは山のふもとの小さな町で、人々は熱心にパウロの語ることに耳を傾け、み言葉を探求しました。ベレヤの人々の姿勢は今日でもキリスト者の理想、模範とされています。

アテネは偶像崇拝が盛んな町で、そのことに憤りを感じたパウロでしたが、彼はむしろ公然と人々を非難するのを避け、偶像崇拝を攻撃せず、アテネの人々の目線からメッセージを語りました。ギリシャ文化において支配的な哲学者の代表であるエピクロス派やストア派の人々に向けてのメッセージ、特に復活に関してはあざ笑う人々がおり、実りが少なく、アテネでのパウロの宣教は失敗だったという見方があるという説明でしたが、しかしそのことに関しては異論もあるように思えます。

続くコリントはギリシャの政治と商業の中心地でした。芸術の都であり、愛と戦いの女神アフロディテ崇拝の中心地で、一千人の神殿娼婦がいたということです。ユダヤ人の反抗にあいつつも、パウロはコリントに2年間滞在し、福音を宣べ伝え、そして教会をたてあげました。

パウロの宣教旅行は自らが好み選んで辿る道ではなく、むしろ追われ逃亡者としての旅、多くの妨害や迫害にあいながらも、なお主の福音を述べ伝えるために労する歩みでした。主の僕としての忠実なパウロの姿勢と確固たる信仰、福音伝道のための労苦を知るほどに、さらに深く聖書を学びたいという思いが強くなります。熱心にみ言葉を探求したベレヤの人々のように、喜んで聖書の学びを続けていきたいものです。

皆さまも是非、音声・資料を通して、パウロの宣教旅行をさらに詳しく学んでください。

感想

  1. パウロの宣教がいかに苦難を伴っていたのかと、今回も更に思わされました。 テサロニケとアテネにパウロが福音を述べ伝える方法、アプローチが違ったこと。 テサロニケでは聖書解説、キリストを証し、論証した。三週間という短い期間であったが彼らは毎日聖書を調べ、み言葉を受け入れ、従う聖徒となっていった。 アテネにおいては偶像崇拝が蔓延しているのを憤りつつもパウロは攻撃せず、彼らのことを宗教心にあつい方々と言い、自分を守る宣教姿勢をとった。 後になって、信仰が根付いたのはテサロニケ。福音の真髄はここにありでしょうか。難しいと思う自分がそこにあり。でしたが充実した講義に感謝します。

  2. 今回は特にアテネでのパウロの宣教が失敗であると言われているということが気になりました。これまで一度もそのようなことは聞いたことがなく、初耳でした。偶像崇拝に対して面と向かって抗議せず、人々と同じ立場に立ってのメッセージだったからでしょうか…どんな時にもどんな所ででも単刀直入に真理のみを語る必要があるのか疑問です。TPOをわきまえて神さまの知恵をいただき聖霊さまの導きに従うことが大事だと思います。偶像崇拝が溢れている日本はアテネと似ていると思うので、なおさら心にひっかかりました。

  3. 信仰を持ったばかりのテサロニケの人々に対するパウロの心配な気持ちが伝わってきました。テサロニケ人への手紙、その読み方が変わるような気がします。また、次回の学びがとても楽しみです。普段気づかない点に気づかせてもらって感謝です。

  4. 永遠の命の教会を神は切望されている筈です。パウロの宣教を再び考える時を与えられました。待っているだけでなく、ことは迫っていることを感じました。今日もみ言葉の迫りを感じました。ありがとうございました。

  5. アテネにて強烈なヘレニズム文化に触れたパウロもその影響をどう受け止めていったか…普通のこと、あらゆる悩み苦しみと人々がどう対処していったか、人々のその年代記として聖書が書かれているのでは…。 エルサレム、アテネ、ローマ、都市とキリスト教の歴史とは各々結びつくのは当然ですが、べレアもその一つでしょうか(隔絶されたことも含めて)

  6. 永遠の命の大切さもあるが、日々の暮らしを喜びを持って感謝と共に歩むことも大事であり、またそれを伝道したいと願うものです。そういう思いを否定された感じもしました。 偶像を否定できなかったパウロの宣教は失敗だったのでしょうか。私たちも頭から偶像を否定していたら、コミュニケーションが成り立たないのでそれはしません。終末をたてにとった脅しのようなことは言いたくないし、また神様は一人も滅びないことを願っていると信じてますし、人の救いを祈っているのでそれが聞かれるまで、神様は憐れんで人々を励まし続けてくださると思ってはいけないのでしょうか?

  7. コリントというと、すぐに性的な不品行の町という印象がありますが…今回はその背景の学びが出来て良かったです。 パウロの宣教旅行が命がけであること、そして神さまのご介入によってパウロが力をいただき前進できたこと、その恩恵を私たちも受けていること、改めて感謝です。単に字面を読むだけでなく、もっと深く聖書を味わいたいと思いました。

  8. パウロは常に聖書そのものを語っていた。パウロはユダヤ人に向けてはイエスがメシアであることを語ったが、迫害はそのユダヤ人の妬みによって引き起こされ続けた。また、パウロの宣教により主を信じた者たちのために教会を形成する役割を担った使徒や信徒たちがいた。 パウロは幻によって神から直接に励ましを受け大胆に伝道できた。 これらのことを学び今の時代も同じ状況にあることを感じ、学ばされた。

  9. 何度も読んだことのあるパウロの宣教旅行ですが、じっくり聞くことができ、背景もわかりよかったです。

  10. 素晴らしいメッセージに感謝します。聖書の学びを自己学習し、伝道に生かしたいです。

  11. 家でじっくりもう一度学んでみます。

感想に対するコメント

使徒の働き17:16-34に記されているパウロのアテネでの宣教は失敗であったという解説に対して、感想を述べていただきまして、ありがとうございます。 「そのような解説を今まで聞いたことがなかったので、動揺している」というご意見だと思います。 パウロはアテネで、福音を広く宣べ伝えるために、敵愾心を引き起こすことは極力避け、偶像を直接否定しない知的なアプローチで語り始めました。

この例から、「パウロもこのようなアプローチを取ったのだから、私たちもこれにならって、状況をわきまえ、賢く御言葉を伝える必要がある」と考えることは間違いではありません。 御言葉の捉え方は人さまざまですので、いろいろなアプローチを宣教手段として用いることは、各信徒の自由です。 主は、各々の信徒の、福音を伝えたいという心、姿勢を理解しておられますので、 どのようなアプローチをとっても主によって責められることはないと思います。それでは、なぜ「失敗」と解説したか、という点ですが、根拠なくそのように解説した訳ではないことを理解していただきたいと思います。

パウロのミニストリーの中では、このアテネの宣教は失敗であった
1)偶像に対して、パウロは「心に憤りを覚えた」
これは明らかに、パウロの個人的な感情というより、聖霊による聖なる憤りとみなすことができる、にもかかわらず、パウロは、妥協的、友好的アプローチをとった(テサロニケ人への手紙第一2:5)。
ただし、パウロは、他の人たちの利益のため、そのようなアプローチをとることがあったので、そのこと自体は非難されることではない[使徒パウロの宣教 第41回で解説](コリント人への手紙第一10:33)。
2)死者の甦りをあざ笑う人々への対応
メッセージを聞いた後、死者の甦りをあざ笑ったアテネの人々に対し、また、社交辞令で「また話を聞きたい」と言った新奇なことや議論が好きな一部の人々に対して、パウロの反応は、続く33節で「彼らの中から出て行った」と、拒絶だったことが分かる。
33節の英語訳は、パウロが反応したのは、アテネの人たちのこのあざけりであったことを明らかにしている(人々の否定的な反応を知っての、パウロの無言の行動であった)(「死者からの甦り」はパウロの福音の礎石[使徒パウロの宣教 第41回で解説])
3)アテネへの再訪はない=教会は生まれなかった
パウロは社交辞令に応えることなく無言でアテネを去って、二度と戻ることはなかった。 新約聖書には、アテネへの言及はここ以外になく、キリストの群れが誕生したという証拠は全くない。 このことは、パウロ一行は教会が生まれた地を必ず再度訪問しているが、パウロの第三次宣教旅行でアテネだけは再訪がないことから、明らかである。
4)救われた人々
コリント人への手紙第一16:15で、パウロはコリントの「ステファナの一家」が、アテネを含むアカヤ地方での「初穂」、すなわち、最初の信徒であると明記している。これは、アテネでの宣教活動では救われた人々が起こされなかったことを意味しているとも解釈できる。
すなわち、34節に救われた人たちが挙げられているが、必ずしも、パウロのアレオパゴスでのメッセージによって救われた訳ではない可能性があり、少なくとも、新しいキリストの群れを築き上げる信徒は 誰もいなかったとも受け取れる:
  • 「アレオパゴスの裁判官デオヌシオ」は、後世の同名の人物に関する記録はある(二~六世紀に隆盛を極めた「新プラトン主義」の文献の本文が実在)のですが、この時代の人物の記録は見つかっていません。なので、教会を立て上げた可能性は少ないと考えられます。
  • 「ダマリスという女」は、当時の貴婦人はアレオパゴスの丘での議論に参加することはなかったので、身分の低い異邦人と思われる。可能性としては、17節の会堂に居合わせた「神を敬う人たち」の一人であったと思われます。
5)パウロの結論的な心情
コリント人への手紙第一2:1-5には、アテネでの空しい宣教の結果得られた結論が反映されているようである。 1)〜3)は資料を考察しなくても、聖書を客観的に読むことによって導かれる結論ではないかと思います。