レポート
6月11日に第51回ヨシェルの会が開催されました。出席者は22名。
梅雨のさなかには珍しいほどの晴天のもと、また学びの時間が持てました。語られる師と参加して下さる皆様と主の導きに、只々心から感謝します。
今日のテーマは「使徒パウロの宣教 その18」。「コリント人への手紙第一 11章」を、表層の言葉の裏に潜むパウロの本音に少しでも近づけるように丁寧に講義してくださいました。
テーマは大きくは2つ。「かぶりもの」と「愛餐会(あいさんかい)」。但し、どちらも歴史的な背景を知っておかないと道を誤りそうなお話し。この2つのテーマの周りに、「語り方」「愛」「吟味」などの伏線が見え隠れし、実は「教会の秩序」をメインとしているという構成です。
先ず「かぶりもの」。女性の髪を覆うものですが、それを付けぬ女性の発言が徐々に横柄さを増してきたという背景があります。パウロは、そうした風潮に対して警告をしているのですが、語り方は先ず褒めるところからはいり、そしてポイントを突いて行きます。「かぶりもの」そのものが問題ではなく、神の定めた秩序を乱すものが主題であることは、「神の栄光」に絡めて話が進むことから判ります。
字面だけを追っていくと、当時の風習的な話、男尊女卑的な考え方にも読める聖句です。しかし、女性の権利を飛躍させたのは、男女の平等を説くキリスト教であり、その根底は言わずもがな「聖書」です。平等に関しての主張はここでも貫かれています。但し、秩序としての形は神が定めています。冒頭で、パウロが自分にならうものになれと言っているのは、神が定めた事柄を守れという暗示が込められているのでしょう。
次に「愛餐会」。本来愛に満ちた食事の場であるはずの「会」が、実は自らの経済力を誇る場であったり、貧しい者を辱めたりする場に成り下がっていた状況に対する警告です。初めに立ち返れ、イエスの共に食という恵みを喜ぼうとする姿勢が説かれます。
そして、「聖餐式(せいさんしき)」へと話が進みます。「これはあなたがたのための、わたしのからだです…(11:24)」。語られた「これ」とは一体何なのか。「パン」なのか、それとも一同に集う「場」ではないのか。何故虚栄心の競い合いの場としてしまうのか、何故愛に満ちた喜ばしい場に皆でできないのか。神の嘆きのような響きが、パウロの言葉の合間に見え隠れします。
一見当時のお話しで片付けられかねない文書の中に、神の栄光が顕れる正しい秩序の形が描かれています。男の光栄、女の光栄、内助の功、恵みを共に喜ぶ姿勢。それらを確かなものにするのに必要な、自分を吟味するということ。他人を吟味するのではなく、自分を吟味することの大切さ。そしてそれこそが、パウロのようになるための唯一の道なのかもしれません。
信仰者にとっては大切な警告も示唆もアドバイスも、今回もたくさん語られました。映像・資料を通して更に深くお学び下さい。
感想
- 今日の講義は「かしら」「かぶり物」「主の晩餐」と興味深い内容でした。かしらの原則 神→キリスト→人(男→女)の順。かしらである男の前で祈ったり、預言したりする自由と権威を行使するために女は「権威のしるし」をかぶるべきというが、現代における「しるし」とは何だろうかと考えさせられた。 女の役割は男を完成させることであり、それによって女は男の栄光の現れとなる。機能と役割の違いなど、身近な題材ばかりで2時間がアッという間でした。
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道徳的腐敗と偶像礼拝の溢れたコリントで、少数派のクリスチャン達は次第に多数派の影響を受けるようになり、パウロの教えた在り方から外れていってしまいました。その状況は自分も含めて今の時代にもあてはまるように思います。神の創造の秩序は、神、キリスト、人間の男、女の順であること、そして神の命令はその秩序に対して服従することでした。また、キリストの再臨を待ち望む主の晩餐もただの仲良し食事会になって、黙示録でラオデキヤの教会に対し書かれているように、まるで主が外に立って戸を叩いているようです。
今回の学びでは、神の秩序と聖餐についてしっかりと心に留める機会を得て感謝でした。 -
役割の大切さを学びました。男女を造られたのは神の栄光の為であることをはっきりと分かりました。神が女にかぶりものをすでに与えてくださっている。女にも権威がある事は嬉しいことです。
キリストの血によって義とされた事は事実であることが凡てです。 今日も深く学ばせて頂きました。 - 「かぶり物」= 権威のしるし。 今日は、現代の女性の興味を大いにそそる難しい神学的原則の理解を助けていただきました。神の創造の秩序は、神→キリスト→人(男→女)の構成順!且つ、男から女が造られた事実。この秩序は決まっていること。神が決めたことだから、反論の余地はない… 。しかし、反旗を翻したい女たちに、神が用意してくださったかぶり物は、女が男の前で祈ったり、預言したりする自由、権威を行使することを可能にする。女にも女の権威があり、その権威を発揮するために、「権威のしるし」をかぶる。「創造の秩序」の原則から、女は自分が置かれている権威を明白にする「しるし」を身に着けるべきである。それは、頭にかぶる物というわけではない。混乱を招かないようにわきまえるべき心のあり方であろう。その時代、場所における文化、社会的背景に相応しい礼節、そしてたしなみをしるしとして「かぶる」のである。
- パウロがコリントの教会に手紙を書いた時代と文化的背景は、現代の日本の状況とは大きくかけ離れている。しかし神の創造の視点からは変わることのない秩序がある。その秩序「かしらの原則」に従って行動する時に男女に与えられている役割を果たし、神の栄光を現すことができる。女性の立場から自分たちに与えられている権威について改めて考えさせられました。
- 聖餐式にあづかる時、11:27以降のことをはっきりと理解することが出来ました。これからの聖餐式の時、教えられたことを覚えてあづかりたいと思いました。
- 分かりやすかったです。新たに教えられた所もありました。感謝です。
- 「権威」は難しいです。