レポート
9月10日に第52回ヨシェルの会が開催されました。出席者は16名。
大きな爪痕を残した台風15号が過ぎ去ったあと、それぞれの痛みを抱えつつも、また学びの時間が持てました。語られる師と参加して下さる皆様と主の導きに、只々心から感謝します。
今日のタイトルは「使徒パウロの宣教 その19」。「コリント人への手紙第一 12〜14章」という三章も費やしてパウロが語りたかったことに少しでも近づけるようにと、丁寧に講義してくださいました。
テーマは、御霊の賜物(恵みの賜物)、すなわち「愛」。
テーマに入る前に示された留意点は、二つ。 一つ目は、人々の賜物の捉え方、そして賜物が持つ本来の目的。
賜物の捉え方の「間違った傾向」としては、無視と優遇の両極端のものがあるとのこと。 賜物自体を軽視あるいは無視して、自力だけで信仰を深めようとする姿勢。 もう一方は、賜物の中の一部だけに焦点を当て、それを過度に強調したり、その賜物を持っている者を優遇したりする姿勢。 あまたある教会の中に、この間違った感覚が多く見られ、それに危機感を感じているパウロの焦りにも怒りにも似た想いが、この3章の根底にあると言います。 賜物に対する姿勢は、今も昔もあまり変わっていないのかもしれません。
そして賜物が持つ本来の目的。 それは、自分自身を救うことではなく、啓蒙や宣教が目的だということ。 すなわち、誰か他の人を救うため、他者を導くためのものだと説かれます。 自分の信仰を強めるために、賜物を武器として印として求める姿勢は、よく目にします。 けれど、神の望んでおられることは、「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく」生きること。 ならば、そのために与えられるものこそが、賜物だと考えるのは道理です。
初臨によって始まった「終末」、それが再臨によって終わろうとしています。 愛が冷えるとさえ書かれている、この時代。
だからこそ、賜物を求めなさい。そして伝えなさい、そして愛しなさい。 愛も宣教も、相手が居てこそのものです。 それでも、賜物も廃れる時代がやってきます、そしてそれでも愛は残ります。 再臨の後にやってくる世界には、そもそも愛が満ち溢れているのだから。
普通に口にできてしまえる「愛」という言葉。 その14もの構成要素を見ながら、来たる世に満ち溢れるという凄い状況に想いを馳せてしまいます。 先を見据えながら、伝えることに真剣に真摯に向き合ったパウロの姿や想いに、触れたような時間でした。
信仰者にとっては大切な警告も示唆もアドバイスも、今回もたくさん語られました。映像・資料を通して更に深くお学び下さい。
感想
- 賜物についても愛についても、箇条書きのようにして、一つ一つを説明をして頂けたので、とても分かりやすかったです。普段読んでいるとついわかったつもりになってしまいがちな箇所ですが、もし人に一つ一つの意味を教えて欲しい、と言われたら、出来ません。怒りについての解説も、今回のお話でとても納得しました。また異言は、ちょうど私が今一番知りたい内容でしたので、詳しく教えて頂けて感謝でした。
- 初代教会の時代も現代の教会も、問題が変わっていないことに改めて驚きました。人間の罪の性質は本当に変わらないんですね。 今回、賜物についても正しい理解の仕方を聖書から再認識でき、自分の中にあった歪みが修正され、求めなさいというチャレンジに対しても臆病になっていましたが背中を押されてしまいました。心しておく学びでした。感謝します。
- 今日は講義後の質問で先生の返答にハッとさせられました。 蛇のように悟くありなさいとは、私たち自身の経験知識に元づいて悟く対処することではなく、主によって与えられる知識、知恵によって成すことなのだと。自分の力でなすように思っていたのを気づかされました。 又、賜物は教会の結束のためにあるもので、特定の賜物重視は教会に分裂を引き起こすことになりやすい。コリント教会から現在の教会が学ぶこと、多々あると思いました。感謝です。
- 今回の学び、9つの御霊の賜物や愛の14の構成要素などについての講義はとても分かりやすく興味深かったです。共同体の益のために用いられるべき賜物が、むしろ分裂を引き起こす可能性もあるということは悲しい現実だと思います。賜物以上に大切な「キリストの愛」の実践を心がけたいと思います。 また、パウロの語った知性を用いての5つの言葉「キリストは、死んで、葬られ、3日目に、よみがえられた」の言及、面白いと思いました。
- 愛14に付記された言葉は大変よく分かりました。控える、純粋な謙遜、怒らない、他の人たちの徳・善を喜ぶ、覆うなどなど。愛の本当の意味をより分かりやすくしていただきました。霊知の言葉を始めて学びました。
- 異言は今の私にとってタイムリーな学びでした。ありがとうございました。