レポート
10月8日に第53回ヨシェルの会が開催されました。出席者は18名。
いよいよ、コリント人への手紙第一の最終回。秋らしさが増すこの時期、終末期を感じつつ、語られる師と参加して下さる皆様と主の導きに、只々心から感謝します。
今日のタイトルは「使徒パウロの宣教 その20」。「コリント人への手紙第一 14〜16章」、この書のまとめの部分を、少し駆け足でしたが、細かく講義してくださいました。毎回そうなのですが、特に今回は、聖書自体を先に読んでから聴かれることをお薦めします。
テーマは、大きく捉えれば、終末期における教会や信仰者のあり方と、主が望んでおられる「秩序」。サブテーマとしては、異言と預言、宣教者の語るべき言葉、死者の復活に関する考え方、そして献金。一つひとつのサブテーマが重く、色々と考えてしまうので、俯瞰図として「秩序」を念頭に置いて聞かないと、迷子になりそうでした。
「意味のないことばなどひとつもありません(14:10)」、そのことを前提にすると、教会で話されるに相応しい言葉とは何なのでしょうか。その観点で、異言と預言とを説明します。伝わらない言葉には意味がないのだと、気分や雰囲気だけで熱狂する状況を、パウロは諭しています。自分が発することだけでなく、それを聴く者のことを考えよ。異言や預言に対してネガティブなことを記している訳ではなく、用い方や考え方において「おとなになりなさい(14:20)」と教えています。
気持ちの高揚からくるものは、最初は聖霊から出たものであっても、制御できなくなってきた時点で、それは異質なものに変わります。聖霊から与えられた、異言や預言の賜物が、宣教のために用いられず、自分が偉いとか特別だとする証拠として勘違いされていく様が耐え切れなかったのかもしれません。
賜物が与えられたと感じたなら、与えられた人には自問する責任が生じるようです。その賜物は、他者の徳を高め、教会内の一致を高め、秩序ある用いられ方がなされているのか、と。多くを与えられた者は、多くの責任を負う。その原則は賜物に関しても一貫しています。
賜物に対する見解や姿勢の一致、復活に対する捉え方の一致、再臨への備えに関する一致、様々な活動を支える献金に関する一致。どこまでも一致と調和を求めておられる主に、戸惑いながら、諦めてはならないと思いながら、聴き入った小一時間でした。パウロは、いつもいつも、私達のことを心配し、応援の言葉を投げかけてくれています。
信仰者にとっては大切な警告も示唆もアドバイスも、今回もたくさん語られました。映像・資料を通して更に深くお学び下さい。
※ 次回/次次回は黙示録となります。
感想
- 今回は先回に重ねて、賜物が教会と他者の徳を高めるものであること、15章では、パウロが福音の頂点とした「キリストの甦り」が私たちに働く力、希望であることを再確認することができました。いつの時代にあっても神の知恵により、賢く、惜しみなく、祈りつつあるようにと教えられました。
- 賜物を用いるうえでの安全弁に関しての説明がとても役に立ちました。賜物は、自分自身の利益のためではなく、他人の徳を高めるために用いるということ。賜物は求めることによって与えられる、しかしその賜物をきちんと管理できるかどうかはその人自身にかかっていると言われたことを思い出します。秩序や調和の大切さを思わされました。 また、科学的なお話も興味深かったです。
- 人としてのしるしが第6染色体にあるという点が興味深かったです。科学が解明されればされる程、意外な点で聖書と結びついてくるのが、とても面白いです。
- 今日は物理も混ぜてのお話があり、とても興味深かったですが、時間の制約があるためか、理解や聞きもれの落ちがあり残念でした。現実と関わる要素を今後ともよろしくお願いします。
- 女性に対すること、進化論のこと、新たに気付くことができました。
- キリスト教で大切な学びである蘇りの理解を深める講義でした。毎回思うのですが、レジメが素晴らしいです。感謝いたします。
- キリストの蘇りの価値、すばらしさが良くわかり、感謝であった。
- マラナタ、現実を見た時その通りです。女はおしゃべり、この点で決して選別でないことが分かります。主の復活の際も、女の噂の原因をも聖書は教えていると思います。 アトモス、まばたきの瞬間、新しい言葉。真のクリスチャンになりたいものです。希望を頂き感謝しています。
- 御霊の賜物、異言について今までにない明確な解説に戸惑いを覚えながらも、これまでの信仰生活から経験したことを踏まえ考察したなかで今日の講義は納得のいくものとなりました。 十一献金の神の意志、重要性を示され、考えさせられました。