TRANSLATE

AD | all

第61回 使徒パウロの宣教 その25

レポート

第61回ヨシェルの会のメッセージ。今回もネット配信の形でお届けします(2020/07/05収録)。

パウロからの献金のすすめ、また恵みの意味についてを、コリント人への手紙から学びます。コリントの教会へは、少ししつこいくらいに献金のお願いがなされます。マケドニアの教会と比べ、熱意はあっても実際の行動が伴わないという特徴があったのかもしれません。献金の問題は、いつも少し厄介な色彩を持つ課題です。それがこのコロナ禍や暴風雨のさなかであれば尚の事です。与えられている恵みや、これからの自分の行動指針についても触れられます。ある意味、これからの終末期への備えとなるメッセージだと感じます。語られる師と参加して下さる皆様と主の導きに、只々心から感謝します。

今日のタイトルは「使徒パウロの宣教 その25」。聖書箇所は、前回からの続き、コリント人への手紙 第二の8〜10章。

マケドニアの教会の熱心さと喜びを通して、コリントの教会へ献金を勧めるシーンです。ただ、よく読むと、単なる勧めでも無心でもありません。コリントの人々が自分で立てた「初心」を貫くことをベースにして話が進みます。自分で献金をしようと心に決めたなら、「初心貫徹しなさい」が軸足です。パウロも強制しないし、他の誰からも無理強いされるものではありません。自分の意志で、喜んで捧げたなら、大きな恵みが待っていることが強調されています。

そして読み進めて出会う言葉にも、少し違和感を覚えてきます。将来に対する「不安」に関する記述が殆どありません。与えることの喜びや誇り、熱心さ、余裕…ポジティブな言葉が続きます、まるで「不安に感じることがない」状態を前提としているような気配を感じます。人が生きていく上で必要なものは、神は予め知っておられ、惜しみなく与えて下さる。そこに疑問を挟む余地はなく、そんなことは当たり前と言わんばかりです。

人生に苦難も壁もつきものです。パウロ自身が通ってきた道の話も章が進むと出てきます。それでも、時に応じて恵みは与えられる。そして、賜物が一人ひとり異なるように、恵みの量も質も異なるようです。足りなく見える者もいれば、多すぎる様に見える者もいます、でもそれぞれに充分なのです。そして差異があるような状況ですら、私達の訓練や学習の場として用いて、分け与えること、支援されること…を知りなさいと、パウロに語らせる神の存在を学ばされます。

解説を聞きながら、改めて献金は「種蒔き」なのだと実感します。余裕があれば支援し、欠乏すれば支援を受ける。そんなサイクルの先にあるものの大きさに目を向けたくなります。そして、教会という垣根を越えたところでの連携、私たちは誰の群れなのかという点にも想いを馳せさせられます。まさに「初心」ですね。

分け与えることは、「知足(足るを知る)」にも通じます。でも、溢れんばかりの恵みの前には、我慢の要素はありません。将来に渡って溢れ続けることへの信頼と期待です。パウロが、無理せず、自分の意志で捧げよと言っている領域は、そんな世界への誘(いざな)いなのかもしれません。お金という私達の目の前の世界から、実は私達の住む世界とは違う次元への誘い。これはもう霊的な話しになってきています。

ですから、様々な誘惑や疑心暗鬼に対抗するのにも、武具が必要です。霊的な武具。それを人間の価値観や学問だけで解決しよう、乗り越えて行こうとすること自体に無理がありそうです。失われた「厳しい手紙」が実は10章以降に含まれているのではないかという説とともに、「私たちの戦い」についても語られています。

信仰者にとって大切な警告も示唆もアドバイスも、今回もたくさん語られました。映像・資料を通して更に深くお学び下さい。

感想

  1. 献金についてこんなにじっくりと学び考えたことはなかったです。 神は色々な意図や目的を持って信徒に賜物であり恵みである金品を、必要或いは十分に与えてくださっているんだなと学びました。 思い当たる不履行にある献金ですが、豊かな者も不足している者も献金の循環を通して、神への感謝と喜びを捧げる霊的祝福に導かれる、神が与えて下さった素晴らしい奉仕の機会であり、必要を満たす恵みの手段だと再認識しました。感謝します。

  2. 献げることは、自分の霊的・信仰状態を自分が認識できる、分かりやすいバロメーターになるように思いました。恵みの体験を循環させ、パウロが語っているように、主への愛と感謝がより深まりますように。

  3. 今回、難しいテーマである献金に関して詳しく講義してくださり感謝します。 クリスチャンになってすぐの頃には、献金をする事は信徒に課せられた義務であり、什一献金、席上献金、宣教献金、特別献金などなど、時には強いられている感じを持ちながら無理をしてでも捧げなければいけないと思っていました。しかし、年月と共に献金は自由意志によって捧げるものであり、主への感謝と主の宣教の働きを支える為に、喜びの心を持って捧げるものであるというふうに考えが変わり、心が自由になりました。 献金は与える恵みであるという事に改めて感動しています。また、供給と需要の天の掟・5つの奨励の教えに感謝します。本当に全てのものが主から与えられているという自覚のもとに金銭や賜物の管理に関しては賢くありたいと願わされます。

  4. 神からすべてを与えられていることを真に理解する時、什一献金、献金、捧げる、与える、施すことはどういうことであるかを学ぶことができました。そして、それが神からの祝福の原則であることを知ることができました。感謝です。