TRANSLATE

AD | all

第75回 使徒パウロの宣教 その38

レポート

2021年9月14日に第75回ヨシェルの会がネット開催されました。

先の見えないコロナ禍による非常事態宣言延長で、直前で会場ではなくネット開催とした慌ただしさでした。ここまで交通網も通信事情も高度化した現代に学んでいるのに、二千年前の人と人との交流が、逆に自由に感じてしまう最近です。一年かけて学んだロマ書から使徒行伝へと戻ってきました。ロマ書の理論的なものから、人々の交流記へと頭を切り替える必要がありそうです。語られる師と参加/視聴して下さる皆様と主の導きに、只々心から感謝します。

今日のタイトルは「使徒パウロの宣教 その38」。

久々の使徒行伝。言葉や理論の旅から、人との関わり合いや感情の起伏の旅へと景色が変わります。地図を横目に、パウロの足跡を辿ります。解説にあった「希望があれば迷わない」という言葉が響きます。「ゴール」や「行き先」ではなく「希望」。確かに、道連れには「明るい希望」が心強いものです。

地図を見れば、だいたいの距離感や位置関係も分かります。でも、あくまで地図上の記号的な理解なのかもしれません。どこに行ったら誰に会える、こちらに行ったら彼に会える、あちらに行ったら彼女に会える。そんな想いまでは地図からは読み解けません。

「道」や「旅」を「人生」に重ねるのは、洋の東西を問わない気がします。今回の解説も、パウロの道筋なのか、自分たちの行く先なのか、時折ぼんやりとダブるような感覚です。

話が長くて寝落ちしてしまった青年の話に、今まで出会った牧師を重ねたり、終末が来るくると言われながら待ちくたびれた人類を想ったり。正当な解釈でも読み方でもない横道に逸れたりもしてしまいました。

そして、パウロの最後を知っているが故に、パウロの決断が正しかったのかという後付けの意見が出るのも興味深いものです。主の御心に従ったと信じて進む者に、外野は時折辛辣な言葉を投げかけます。もちろん、その信じているという自覚が勘違いなこともあれば、引き留めようとする悪魔の囁やきの場合など、簡単に判断できることではありません。

現代を生きる私たちも、決断して進むさなかに、友人から親から家族から様々な言葉を受けます。励ましも、ダメ出しも、アドバイスも、形も中身も千差万別です。特に苦難が見えている場合には、心が揺れます。頑なであることは、正しいことの証明でも、間違っている証拠でもありません。

聖書はどう言っているのか、今まではどうだったのか、危険だという警告だけなのか、禁じるところまで踏み込んでいるのか…パウロの決心を様々な確度から見直すプロセスは、やはり私たちの歩みの確認プロセスにも応用できそうです。

そして、パウロが細心の注意を払って生活していることも、律法に縛られることはなくとも遵守している部分もあることも、興味深い姿です。正論を語るパウロの後ろ姿を見た思いがしました。

パウロを支えてくれた人々、心配してくれた人々、会いたい人たち、伝えたい人たち。沢山の名前をただ辿るだけではなく、想いの振れ幅まで読み解けたなら、聖書がもっともっと感動的になります。そして、私たち自身も、そのような人たちに囲まれていることへの感謝も増します。

コロナ禍で、直接会うことが難しくなった分、出会いや伝えることの意義が増しました。語り伝える備えの大切さも身にしみます。信仰者にとって大切な警告も示唆もアドバイスも、今回もたくさん語られました。音声動画・資料を通して更に深くお学び下さい。

感想

  1. パウロの宣教の学びも38回になりました。悩み喜ぶパウロの人間味を肌で感じる回もあったのですが、今回は、死人ユテコの上に身をかがめ確信に満ちて「心配することはない、まだ命がある」と宣言したり、群衆を煽動して自分を打ち殺そうとしたユダヤ人やその民衆に向かって、自分に起こった救いの証を語ろうと「一言話しをしてよいでしょうか」と千人隊長へ冷静に謙虚に申し出たパウロから、キリストへの愛と伝道を委ねられている使命感と失われようとする魂を惜しむ愛、キリストが十字架上で神に人々の許しを願った愛と全くひとつになっているようなパウロを感じました。ステパノの殉教の時、石を投げる人々の脱いだ服が置かれたのはこのサウロの足元だったのだろうか。人を作り変える神も凄いし、変えられるパウロも凄い!学びに感謝します。

  2. ローマ人を終え、今回使徒20,21章でパウロの第3次宣教旅行を学び、パウロの生涯に更に思いを馳せることができ感謝でした。20章22~24節、なわめと苦しみが待っているのに福音を述べ伝える任務を果たす。「縛られて」は名訳と思います。パウロの内なる魂、霊が主と一体化していて、聖霊の導くまま、まるで縛られているようにエルサレムに向かった。トロアスからアソスまで独り陸路を歩いたパウロ。第Ⅱコリント11:23~27にあるように、さまざまな困難や迫害にあったパウロにとって、その時の主との交わりはどんなに深く強いものだっただろう。想像が膨らみます。

  3. いよいよ第3次宣教旅行の終わり、帰途に着くパウロ一行の足取りを辿る学びは新鮮でした。エルサレムに行くこと、すなわち苦難が待ち受けていることを知った上で、心を定めて前進するパウロの使命感の強さと心情に心打たれます。旅と一口に言っても、使徒の時代に旅することは本当に大変なことだったと思います。聖書に記されている町々の名前と出来事を確認しながら、改めてパウロの宣教に対する熱意と働きの大きさを知ることが出来ました。また、パウロの身を案じる信徒たちの思いも伝わってきて心痛くなります。別れに際して、キリストの愛の絆で結ばれているパウロと信徒たちの抱擁とひざまづいての祈り…胸が熱くなります。パウロがエルサレムへ行くべきか否か?という見解に関しては、今までそんなことは考えたことがなかったので、とても興味深かったです。今回も新たな視点が与えられ、学びに感謝しています。

  4. 今回の学びではエルサレムに心を向けて旅立つパウロと、エルサレムに目を向けて真っ直ぐに歩まれたイエスさまの姿勢がダブりました。トロアスでは時間を惜しんで、夜を徹してメッセージを語り、そしてミレトスではエペソの長老たちに向けて愛と警告のメッセージを語るパウロ。いつでも何処でも宣教のために命がけで歩んできた使徒の真摯な姿勢に感動を覚えます。エルサレムにおいては事なきで終わるかと思えるまさにその時に騒動が起こるという状況から、敵の攻撃の仕方に憤りを覚えますが、しかし同時に千人隊長の出現によって助けられ、むしろメッセージを語るチャンスが与えられたことは神の計らいです。どのような状況に追い込まれようとも、いつも冷静に福音を語る備えをしていた使徒パウロ、改めて神の尊い選びの器である事を思わされました。22章でのエルサレムにおけるパウロのメッセージ、次回の学びが楽しみです。