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第90回 ヨハネの黙示録 その12

レポート

2023年1月10日に第90回ヨシェルの会が開催されました。出席者は13名。

師の冒頭の挨拶のように、「色んな問題を孕(はら)んだまま、何も解決しないで、新しい年に入りました」。コロナ禍になって顕在化した多くの課題への対処法の道筋は全く見えず、問題が次々と積み上がるだけのように感じてしまいます。もはや人の知恵で何とかできる状況ではなく、神の御手に期待する祈りが増えています。今回は、題するなら「2つ目の大バビロン」です。既出の「大バビロン」とは別の「大バビロン」の崩壊を学びます。語られる師と参加/視聴して下さる皆様と主の導きに、只々心から感謝します。

今日のタイトルは「ヨハネの黙示録 その12」。

学ぶ聖書箇所は、ヨハネの黙示録18〜19章9節。17章の「その後」に「もう一人の御使い」が「大バビロン」の倒壊を告げます。時系列から見ても、文脈から見ても、既出(第17章)の「大バビロン」とは別物だと考える方が論理的でしょう。この2つの「大バビロン」の違いを学びつつ、私たちの行く末を考えます。

「17章大バビロン」と「18章大バビロン」、どちらも「都」と書かれていますが、前者は「大淫婦」や「母」と呼ばれることから「人」を想起させ、後者は「忌まわしき者たちの巣窟」や「富」から「場所(大商業都市)」に関連付けられています。前者は心や信仰に対する障害物であり、「18章大バビロン」はこの世の富に関わる邪悪な障害物とも言えるかもしれません。

興味深いのが「18章大バビロン」の扱っている商品です。金銀から奴隷まで、従来からの変わらぬ搾取的金持ち達の好む「領域」の次に「いのち」が加わっています(黙18:13)。奴隷のいのちではなく、「人のいのち」。人の自由を搾取するというよりも、命そのものを商品として扱っている書き方です。何人の命を奪ったのかが、価値となるような「商品」。2年前には実感がなかったかもしれませんが、今現在では「戦争」が真っ先に脳裏に浮かびます。宝飾品にまみれ、贅沢品を貪り、人の命を奪うことを楽しむ人々。そんな者たちを富ませる「大バビロン」が滅ぼされる時が来ます。罪や不正が裁かれる時、義が立てられる時が来ます。

聖書は「いつまでも残るのは信仰と希望と愛(Iコリント13:13)」だと語りつつ、信仰に対応する邪な信仰とも言える「17章大バビロン」、次に物質的なものである「18章大バビロン」の順で刈り取るようです。邪なものは、先に根幹から断つという方針も感じます。この18章大バビロンが瞬時に倒され、そうした悪しき富の上に家を築いてきた者たちの嘆きの中、彼らに組しなかった者たちへ「喜べ」と声が響きます。

山上の垂訓が頭の中に浮かびます。今富んでいる者、今満腹している者、今笑っている者は、哀れです(ルカ6:24-25)、義に飢え渇く者、義のために迫害されている者は、幸いです(マタイ5:6-10)。

滅ぼされる者たちは、慰めも与えられず、飢えるようになり、泣き悲しむ(同マタイ)。喜べと命じられた残される者たちは、慰められ、地を受け継ぎ、満ち足りて、神を見て、天の御国はその人たちのものだと宣言されます(同ルカ)。

滅ぼされる「都」では、音楽は止み、楽しみは消え、諸々の技術も停滞し、闇が覆い、喜びごとは起こりません(黙18:22-23)。喜べと命じられ残された者たちは、歓喜の後に厳粛な婚礼に招待されます。待ち望んできた「義」と「裁き」がなされ、心底から喜んで良い世界が広がるのです(黙19:1-9)。待ち望む気持ちが強いほど、喜びも深いのだろうと期待してしまいます。

どこでどう道を違えたのでしょう。まさに天と地ほど、いやそれ以上の「差」が存在します。山上の垂訓は、マタイではイエス自らが教える「主の祈り」と続きます。他にも日々どのように生きるべきか、どのような指針に沿って生きていけば良いのかも示されます。神が既に艱難期のスイッチを入れたかのような日々が続きますが、信徒一人ひとりの「実(覚醒)」が求められているかのようです。信仰者にとって大切な警告も示唆もアドバイスも、今回もたくさん語られました。音声動画・資料を通して更に深くお学び下さい。

感想

  1. 今回の学びでは、先に宗教組織バビロンが地の王たちによって滅び、次に政治経済のバビロンが神の裁きによって一瞬のうちに滅びるという バビロンの名に2つの側面があることを学び、黙示録の難解な部分を理解する大きな助けになりました。また、配布していただいたフルダミニストリー月報1月号にある「ダニエルの70週」の預言に対する新しい解釈も大変興味深いものでした。感謝します。

  2. 黙示録のクライマックスである18章19章。商業、政治、経済バビロンの倒壊がどのように滅ぼされるか。それは一瞬にして起きる。今あるもので絶対的なものはないし、強固な揺るぎないものもない。この世と分離しなさいとあり、魔術の罠から目覚め、本当に必要な物を吟味して日々の生活を心していかなければと思わされます。大艱難の終わりにイエス様の再臨、携挙があり婚姻婚宴の描写は喜びです。再臨のイエスキリストを待ち望み、周りの人たちの救いのために執りなしの祈りを今回も思わされました。

  3. 前回と今回の学びで、2つのバビロン:宗教組織と商業・政治・経済的組織の違いが明確になりました。この世はいつも権力、経済力によって支配され、格差社会の中で不平等さがいつまでも続くように思えます。しかし、神の忍耐に終止符が打たれ、確かな裁きが実行される時が近づいており、そして一旦裁きが始まったら悪は本当に一瞬のうちに滅び、一掃される。それまでずっと抑圧されて来た犠牲者たちの願いが聞かれ、神の義が取り戻されることが確約されているが故に、理不尽で不平等だと思えることも受け入れられる。黙示録の中ではじめて「喜べ」と記されているとの解説に、「長いなぁ…」と思うと同時に、安心もします。19章に関しては頭の中の整理が追いつきませんでした。婚姻、携挙、天上・地上での出来事、花嫁と客の解説に関しては、もう少し時間をかけて理解を深めたいと思います。
    アームストロング氏の見解、興味深いです。「最善を祈り、最悪に備えよ!」“バビロン”に象徴されるこの国の都のためにも執り成しの必要性を強く思わされます。主がこの国を憐れんでくださり、悔い改めへと導いてくださり、救いの恵みに与らせてくださいますように!

  4. 「主の祈り」について。コロナ禍になって個人的にYoutube日曜礼拝させて頂いている「MACF(Mission Aid Christian Fellowship)」の主の祈りの解説(部分)を記させて下さい。これからの歩みの支えになる気がします:
    【私たちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください】
    私たちにとっていちばんの誘惑は、自分の弱さ、不甲斐なさに絶望すること。やりなおす努力を放棄することです。また、何事も争わず、対立せず、波風を立てずに収めたいという思いも大きな誘惑です。私たちの優しさが、不正に満ちた体制を支えることになりませんように。私たちが互いに絶望することなく、この世の中で生きられますように。